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Program library Vol.5 ジャコモ・プッチーニの世界(前編)

Program library Vol.5 ジャコモ・プッチーニの世界(前編)
プッチーニの故郷、ルッカにあるブロンズ像
 コンサートをより楽しむには、その演奏される曲を理解しておくことが大切。作品が世に出るまでのエピソードや人気の背景を知れば、コンサートがさらに楽しくなることでしょう。そこでスタートした、コンサート・プログラムを簡単に予習する特集企画「Program library」。  Vol.5は2024年で没後100年を迎える、ジャコモ・プッチーニ。数々のオペラの名作を創り出し、《蝶々夫人》から〈ある晴れた日に〉や《トゥーランドット》の〈誰も寝てはならぬ〉など、文字どおり“誰もが知っている”と言える作品を数多く残しました。  前半ではまず「オペラ以外」の名作を探ります。

超概略・プッチーニの生涯

 1858年12月、イタリア中部トスカーナ地方のルッカという町で、ジャコモ・プッチーニは生まれた。プッチーニ家はジャコモ少年で5代目となる音楽家の家系であり、地元の宮廷楽団の指揮者や、教会のオルガニスト兼合唱指揮者を務めてきた。幼少期から「跡継ぎ」として歌やオルガンを仕込まれたがあまり才能を示さず、それでも我が子を音楽家に……という母親の願いで、亡き父親の弟子アンジェローニに師事するようになり、10歳のころから教会の少年合唱隊で歌い始めた。良き指導者に恵まれたことでジャコモ少年は次第に音楽の才能を開花させ、オルガン、ピアノの腕前も上達。さらには作曲も手がけ始めた。
 彼がオペラ作曲家を目指すきっかけとなったのは、18歳でヴェルディのオペラ《アイーダ》を観たことであった。パチーニ音楽院で学びながら演奏活動をして資金を稼ぎ、1880年秋に大伯父の支援とマルゲリータ女王の奨学金も得て、ミラノの王立音楽院に入学した。王立音楽院では、のちにオペラ作曲家となるピエトロ・マスカーニとも知り合い、下宿を共にした。
 1883年7月に王立音楽院を卒業することになるプッチーニであったが、オペラ作品をまだひとつも書けていなかった。作曲の師匠アミルカレ・ポンキエッリの口利きで、台本作家のフェルディナンド・フォンタナに台本の提供を受け、《妖精ヴィッリ》を作曲し、楽譜出版社ソンツォーニョの主催するオペラ・コンクールに応募したが、落選の憂き目を見た。
 オペラ作曲家の夢、ここに潰える……かと思われたが、天はプッチーニを見放さなかった。ミラノのマルコ・サーラ邸で行われたパーティに、ポンキエッリの紹介で出席したプッチーニは、《妖精ヴィッリ》の一部を自らピアノを弾き、歌って披露した。
 これをたまたま聴いていたのが、作曲家のアッリーゴ・ボーイト(わが国ではヴェルディの《シモン・ボッカネグラ》《オテロ》《ファルスタッフ》の台本作家として知られる)だった。ボーイトは《妖精ヴィッリ》を絶賛し、1884年5月にダル・ベルメ劇場で初演の運びとなった。無名の新人の、しかもコンクール落選作品が、ポンキエッリとボーイトの推薦で初演されるという珍事は多くの人の関心を呼び、劇場は満員、初演は大成功。当時音楽界最強とも言われた楽譜出版社、リコルディとの契約も獲得した。オペラ作曲家、ジャコモ・プッチーニの誕生であった。
 しかし、ここから順風満帆とはいかなかった。かつての楽友の妻と不倫の末に子どもをもうけるに至ったが、結婚は認められず、1889年にスカラ座で初演されたオペラ第2作《エドガール》は失敗に終わった。失意の底にあるプッチーニに精神的、経済的な援助を与えたのは、楽譜出版社・リコルディ社の社長、ジューリオ・リコルディであった。
 当時、フランスの作曲家、ジュール・マスネのオペラ《マノン》が大ヒットしていた。プッチーニはこの作品の原作にあたる、アベ・ブレヴォの自伝的小説『ある貴族の回想と冒険』第7巻「騎士デ・グリューとマノン・レスコーの物語」を読んで感銘を受けた。ジューリオ・リコルディらの反対を押し切って、既にヒットしている作品をイタリア人ならではの筆致と情熱で仕上げたオペラ第3作《マノン・レスコー》は1893年2月にトリノのレッジョ劇場で初演され、プッチーニにとって初の成功作となった。
 1896年初演の《ラ・ボエーム》、1900年初演の《トスカ》、そして1904年初演の《蝶々夫人》など、いまもイタリア・オペラの、いや「オペラ」というジャンルを語る上で外すことのできない人気作を次々と世に送ったが、これらの作品は実のところ初演は「大成功」と言えるものではなく、人気の定着にはやや時間を要した。《マノン・レスコー》に続く、プッチーニ自身にとっての大成功作は、アメリカを舞台とする作品で、1910年にニューヨークのメトロポリタン歌劇場で初演された《西部の娘》であった。
 ウィーン風のオペレッタを依頼されたことをきっかけに書かれた《つばめ》(1916年初演)、「三部作」の呼び名で知られる《外套》《修道女アンジェリカ》《ジャンニ・スキッキ》など、スケールの大きい作品だけでなく、軽快な作品から、“なまなましい情感”を直接的に表現することに重きを置いた当時の潮流、「ヴェリズモ」の影響を受けたものまで、さまざまな作品を手がけてきたプッチーニ。
 そんな彼が、1919年夏にシモーニという博識な劇作家と出会ったことをきっかけに書き始めたのが、中国を舞台とするオペラ《トゥーランドット》であった。中国音楽を彼なりに研究しつつ作曲を進めたものの、ガンとの戦いの末に、終曲を未完のまま遺して1924年11月29日にこの世を去った。12月3日にはミラノの大聖堂で国葬が営まれ、イタリア中で半旗が掲げられて彼の死を悼んだ。

プッチーニの作品解説【管弦楽曲・声楽曲】

《交響的前奏曲 イ長調》(1876年)

 プッチーニが18歳のときに作曲した管弦楽曲である。同年には、本作に先立って《管弦楽のための前奏曲》と題した作品も書いているが、この作品は楽譜の一部が紛失している。プッチーニは、交響曲や協奏曲の類を一切書かなかったし、オペラ以外の作品が少ない。本作と、1883年に作曲した《交響的奇想曲》は、若き日のプッチーニの姿を今に伝える貴重な作品である。
 《交響的前奏曲》は、冒頭から木管楽器、そして弦楽器へと受け渡される憂いを含んだメロディが、のちのオペラ作曲家プッチーニを予感させる。徹底した旋律の美しさで押していく作風であるが、中盤以降の劇的な盛り上がりやオーケストレーションの巧みさも要注目だ。

《四声のミサ曲》(1880年)

 出生地ルッカで代々、宮廷楽団と教会音楽を取り仕切ってきたプッチーニ家であったが、5代目となるジャコモが書いた教会音楽は、1878年の《モテットとクレド》などごくわずかにとどまり、しかもどの作品も生前には出版されなかった。
 1880年に完成され同年7月に初演された本作は、聖パオリーノの祝賀用に作曲した《モテットとクレド》が大絶賛されたことに気をよくして着手されたものであった。パチーニ音楽院の卒業制作として完成し、1880年の7月12日、聖パオリーノの祝日に初演された。「あまりに劇場的」とも評されたが、全体としては好評だった。
 天から大地に音が降り注ぐような前奏に導かれて合唱が歌い出す〈キリエ〉に始まり、大規模かつ壮大な〈グローリア〉、劇的な〈クレド〉、やわらかい合唱の響きとバリトン独唱との対比が印象的な〈サンクトゥス〉、そして美しく淡々と平和の祈りを歌う〈アニュス・デイ〉と、5つの章それぞれが特色豊かである。
 〈キリエ〉の旋律は《エドガール》の第1幕に、〈アニュス・デイ〉の一部分は《マノン・レスコー》の第2幕に転用された。また、〈グローリア〉の終結部分のフーガは、プッチーニが紛れもなく教会音楽家の家系に生まれたことを示している。

歌曲《太陽と愛》(1888年)

 プッチーニは、1881年に発表した《メランコニーア》から、1923年の《ローマ讃歌》に至るまで、13曲の歌曲を残している。その多くは生前に出版され、愛好されてきた。ここではそんな彼の歌曲から《太陽と愛》に焦点を当てたい。
 1887年からジュゼッペ・ヴェルディの発案により刊行された音楽雑誌『パガニーニ』の付録として、1888年に発表された本作の歌詞は、ジョズエ・カルドッチのソネット「朝の歌」を下敷きにしつつ、一説によればプッチーニ本人が書いたと言われている。
 軽快な伴奏に乗せて歌われる旋律は、朝の太陽の輝きと愛のよびかけを歌っている。締めくくりの歌詞は当初「1888年3月1日」と作曲の日付をそのまま歌にしたものとなっていたが、出版に際して「パガニーニへ。G.プッチーニ」と改められた。プッチーニの軽妙洒脱さとユーモアの詰まった作品である。

弦楽四重奏曲《菊》(1890年)

 プッチーニの器楽曲・室内楽曲は数が少なく、そのほとんどがミラノ音楽院在籍中に書かれている。ミラノ音楽院卒業後に書かれた数少ない作品のひとつが、弦楽四重奏曲《菊》である。
 歌劇《エドガール》作曲中、サヴォイ侯爵アメーディオ侯の死去の報に接して、一晩で一気に書き上げられ、カルテット・カンパネリが初演するやいなや瞬く間に好評を博したと言われている。
 半音階が印象的で悲しみと激情が交差する嬰ハ短調の旋律、亡き人をしのぶかのように静かに歌う中間部の嬰ヘ短調の旋律、いずれもプッチーニらしい美しさを湛えている。中間部の旋律は、《マノン・レスコー》第4幕の最後に転用された。
続く「後編」では、プッチーニの神髄にあたるオペラ作品をご紹介する。オペラ・ファンならずとも一度はタイトルを聞いたことがある作品が目白押しだ。

<文・加藤新平>

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