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Program library Vol.9 「神童」「天才」モーツァルト(前編)

Program library Vol.9 「神童」「天才」モーツァルト(前編)
 コンサートをより楽しむには、その演奏される曲を理解しておくことが大切。作品が世に出るまでのエピソードや人気の背景を知れば、コンサートがさらに楽しくなることでしょう。そこでスタートした、コンサート・プログラムを簡単に予習する特集企画「Program library」。  クラシック音楽の作曲家……と聞いて、真っ先に思い浮ぶ名前は誰でしょうか。ヨーロッパから遠く離れた日本においても、やはりこの人の名が挙がることが多いのでは? 彼の名は、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト。  Vol.9では、彼の生涯と作品を独自の視点で紐解き、たどってみましょう。

超概略・モーツァルトの生涯

 モーツァルトは、1756年に神聖ローマ帝国領のザルツブルク(現在のオーストリア領)で生まれた。父のレオポルト・モーツァルトは大司教礼拝堂勤務を経て、のちに礼拝堂副楽長へ昇進するほど、ザルツブルクを代表する作曲家であった。
 幼少期から音楽の才能を発揮し、父から英才教育を受けたヴォルフガング少年は、父とともにザルツブルク大司教ヒエロニムス・コロレド伯爵に仕え、チェンバロの優れた演奏家として頭角を現し、父に連れられて姉のマリアンネとともにウィーン、パリ、ロンドン、さらにドイツ、オランダ、イタリアの各地へ何度も演奏旅行に出かけた。オルガンやヴァイオリンの名手としてもその名を轟かせた。5歳のときには初めて作曲を試み、《アンダンテハ長調》 K.1aをはじめとするチェンバロ曲を書いた。そして8歳のときには交響曲作曲家として、12歳のときにはオペラ作曲家としてデビューを果たした。
 まさに「神童」の名にふさわしい大活躍ぶりであった。また、パリではヨハン・ゴットフリート・エッカルト、ヨハン・ショーベルトの作品から影響を受けた。ロンドンではヨハン・クリスティアン・バッハと出会い、オペラから交響曲、鍵盤楽曲にいたるまで幅広い作品を手がけ、ジャンルの枠組みを超えてイタリア・オペラの「歌心」を採り入れている彼の作風に強く感化された。ボローニャではジョヴァンニ・バッティスタ・マルティーニ神父のもとで対位法を学び、1773年夏にウィーンに滞在した際にはヨーゼフ・ハイドンと出会い、特に交響曲の書法について大きな影響を受けた。
 長きにわたる演奏旅行は、ヴォルフガング少年にとって音楽家としてのさらなる成長をもたらした。しかし、この演奏旅行の影で、キャリアアップを狙った父レオポルトは各地の宮廷で親子そろっての「転職活動」に失敗し続けていたし、演奏活動や作曲で得た報酬も、実はあまり充分なものではなかったと言われている。
 1774年から1781年までは、故郷のザルツブルクを拠点にコロレド伯爵のもとで働いたが、モーツァルトは気の合わない雇い主と、才能を発揮する機会が少ない田舎暮らしにウンザリしていた。この間、彼は1777年9月から母親とともにミュンヘン、アウグスブルク、マンハイム、パリへと転職活動を兼ねた旅に出かけた。この旅行中、モーツァルトはふたつほど激しい恋をしたが結婚にはいたらず、転職先も見つからず、さらに1778年7月にはパリで母親が病死し、翌年失意のうちに帰郷した。
 1781年1月にミュンヘンのオペラ劇場からの委嘱で作曲したオペラ《イドメネオ》は成功作となったが、雇い主であるコロレド伯爵との不和は限界に近づいていた。3月にコロレド伯爵の命令でウィーンへ赴いたが、ここでふたりは激しく対立し、モーツァルトはついに5月9日付で解雇された。
 クビになったモーツァルトが選んだ道は、宮廷や礼拝堂の音楽家としての再就職ではなく、フリーランスの音楽家としての独立だった。ウィーンに定住した彼にとって、作曲、出版、演奏、そして鍵盤楽器のレッスンが収入源となった。転職活動に必死だったころの彼の姿はもうそこにはなかった。
 1782年には、父レオポルトの猛反対を押し切って、かつてマンハイムで交際していたアロイジア・ウェーバーの妹、コンスタンツェ・ウェーバー(オペラ《魔弾の射手》などの作品で知られる作曲家、カール・マリア・フォン・ウェーバーの従姉)と結婚した。現代風に言えば「元カノの妹」であり、しかもウィーンでの下宿先の大家さんの娘でもある……ということで、コンスタンツェとの交際・結婚はかなり思い切った行動である。
 ウィーンでモーツァルトの最大の理解者となってくれたのは、ヨーゼフ・ハイドンだった。1785年にモーツァルトはハイドンに自作の弦楽四重奏曲を献呈した。また、結婚をめぐり一時は険悪な関係になった父レオポルトも、ハイドンを通してモーツァルトの活躍を知ったほか、故郷を離れて暮らす息子のよき文通の相手にもなった。ただし、モーツァルトの足跡をたどる手がかりとなる手紙は、父の死とともに激減しており、また彼はマメに日記をつけるような人物でもなかったことから、1787年5月に父が死去して以降は、モーツァルトの足跡はかなり追いにくくなっているのが現状である。
 作曲家として多数の新作を世に送り出し、演奏やレッスンの依頼も多く、ウィーンで大活躍を続けていたモーツァルトであったが、実は単価の高い案件をなかなか受注できず、生活は楽ではなかった。そのうえ彼には浪費癖があり、晩年に残っている手紙の多くは借金がらみのものばかりである。
 1788年ごろから次第にモーツァルトの人気は低迷し、コンサートの観客動員も減り続けた。1790年2月には、新しい皇帝レオポルト2世の即位式に合わせて、フランクフルトで自腹を切って演奏会を開催し、ピアノ協奏曲第26番 ニ長調 K.537 《戴冠式》などを演奏したが、コンサートは失敗に終わり巨額の借金が残った。
 1791年1月、ピアノ協奏曲第27番 変ロ長調 K.595をみずからの演奏で初演した。結果的にこれが彼にとって最後のコンサート出演となった。9月30日にはジングシュピール(オペラふうの音楽劇)《魔笛》 K.620を発表するなど作曲家としては活動を続けていたが、体調は悪化の一途をたどり、同年12月5日、《レクイエム》を未完のまま遺して死去した。享年35歳。あまりにも寂しい「神童」の最期だった。
 今でこそ、クラシック音楽史最高の天才に位置付けられるモーツァルトだが、その生涯は必ずしも順風満帆ではなかった。ある意味で「死後評価が急上昇した」作曲家の最たる例かもしれない。

モーツァルトの交響曲

 まずはなんといってもモーツァルトの出発点、交響曲第1番 変ホ長調 K.16からご紹介したい。1764年、作曲者8歳のときの作品である。冒頭部分の管楽器の響きは「やわらかい響きの不協和音の連鎖」という、モーツァルトの作品の特徴を強く示しており、8歳にしてすでに「モーツァルトらしさ」全開。また、第2楽章のホルンのメロディが、後述の交響曲第41番 《ジュピター》と重なっていることでも知られる。
 1773年、17歳のときに作曲した交響曲第25番 ト短調 K.183(173dB)は、ザルツブルグ時代の最高傑作のひとつ。冒頭のシンコペーションの旋律が醸し出す焦燥感とインパクトは唯一無二。
 1778年に作曲した交響曲第31番 ニ長調 K.297(300a)は、パリの楽団からの依頼で書かれたため、《パリ》の愛称をもつ。フルート、オーボエ、クラリネット、ファゴットが2本ずつそろう「二管編成」をモーツァルトが初めて採用した作品である。管楽器の性能をフルに活かしており、当時としては巨大な編成の仕事を初めて受注したモーツァルトの、喜びと意欲の高さが聴きとれる作品だ。彼がこのとき感じた喜びは、現代風に言えば「憧れのスーパーカーをようやく手に入れて、初めてドライブする」のに近かったはずだ。
 1782年、ハフナー家のために作曲したセレナードをアレンジしたもので、《ハフナー》の愛称で知られる交響曲第35番 ニ長調 K.385は、第1楽章冒頭の豪快な旋律と立体的な書法が印象的。いかにも「セレナード」らしい第2楽章、堂々とした第3楽章メヌエット、そして音量の急激な変化が印象的な疾走感のある第4楽章、どれをとっても絶品だ。ちなみに、筆者のイチオシの作品はこの《ハフナー》である。
 最晩年の傑作のひとつ、1788年に完成した交響曲第39番 変ホ長調 K.543は、第1楽章の、まるでオペラの序曲のように劇的な開始と、後に続く牧歌的な主題の対比がみごと。管楽器をフル活用した第4楽章もすばらしい。
 同年に書いた交響曲第40番 ト短調 K.550は、悲哀に満ちた第1楽章冒頭の主題が印象的。この主題、実はメロディではなく伴奏のほうが先に始まるという点が、作曲当時は革新的とされていた。拍子がわからなくなるしかけが施された第3楽章はモーツァルトの超一流のユーモアか、はたまた彼が抱えていた健康面や経済的な不安の象徴か。
 モーツァルトの交響曲、いや「交響曲」というジャンルの最高峰と言ってもよい作品、それが先述の2作と同年に書かれた交響曲 第41番 K.551は、トランペットやティンパニを多用した豪華で壮麗なサウンドから《ジュピター》(ローマ神話の最高神、ユピテルのこと)の愛称で知られる。特に第4楽章の「ド→レ→ファ→ミ」という、交響曲第1番の第2楽章と重なる音型を主題とするフーガ(複数のパートが次々と重なり追いかける音楽)は、モーツァルトの書いた最高の音楽である。
 「中編」では、モーツァルトのピアノ曲、室内楽曲、協奏曲、そのほかの管弦楽曲、後編ではオペラ、宗教音楽についてご紹介する。

<文・加藤新平>

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