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Program library Vol.8 ドイツ三大Bのひとり、ブラームス(前編)

Program library Vol.8 ドイツ三大Bのひとり、ブラームス(前編)
 コンサートをより楽しむには、その演奏される曲を理解しておくことが大切。作品が世に出るまでのエピソードや人気の背景を知れば、コンサートがさらに楽しくなることでしょう。そこでスタートした、コンサート・プログラムを簡単に予習する特集企画「Program library」。  Vol.8はブラームス。J.S.バッハ、ベートーヴェンと並び、ドイツ音楽の「三大B」と称され、ドイツ音楽のみならず西洋音楽というジャンルにおいて素通りできない重要な存在です。我が国においてもクラシック音楽の王道中の王道として多くの支持を集めています。  まず前編ではそんなブラームスの生涯と作品を、独自の切り口で紐解いてみましょう。

超概略・ブラームスの生涯

 ヨハネス・ブラームスは、1833年5月7日、ハンブルクで市民劇場のコントラバス奏者の息子として生まれた。作曲家ではアレクサンドル・ボロディン(11月12日生まれ)、日本の歴史上の人物では、明治維新の元勲として大久保利通、西郷隆盛とともに「維新の三傑」と呼ばれる「桂小五郎」こと木戸孝允(8月11日生まれ)と同学年である。木戸孝允と同学年……と聞くと、案外最近の人物のようにも思えるのではないだろうか。
 7歳からオットー・コッセルのもとでピアノを学び、10歳でコンサート・デビューを果たした。この時、「神童」としての売り出しを狙ったアメリカの興行師からスカウトを受け両親も乗り気だったが、ヨハネス少年にもっと高度な音楽教育を受けさせたいコッセルが猛反対し、コッセルの紹介で作曲家兼ピアニストのエドゥアルト・マルクスゼンに師事することとなった。マルクスゼンのもとでピアノと作曲の腕を磨きつつ、13歳からレストランや居酒屋でピアノを弾くアルバイトをして家計を支えた。華やかなコンサートホールの舞台など無縁の、地味で地道な活動だった。
 1853年、ハンガリー人のヴァイオリニストであるエドゥアルト・レメーニとともに演奏旅行をする機会があり、このときレメーニからロマの音楽について教わった。これは、のちの《ハンガリー舞曲》作曲の動機となるなど、彼の音楽活動に大きな影響を与えた。演奏旅行の途中、同じくハンガリー人のヴァイオリニスト、ヨーゼフ・ヨアヒムに会いに行き、ブラームスとヨアヒムはすぐ意気投合した。その後、ヨアヒムの勧めでレメーニとブラームスはフランツ・リストに面会したが、リストはブラームスの自信作であるピアノ・ソナタ第1番 ハ長調に関心を示さず、目立った成果は得られなかった。やがてブラームスはレメーニと喧嘩をし、ひとりでヨアヒムのもとに帰っていった。
 「神童」としてのデビューを諦め、コンサート・ピアニストではなくドサ回りのしがない「ピアノ弾き」になっていたブラームスは、音楽界の表舞台に立つ機会をなかなかつかむことができずにいた。
 1853年9月30日、ブラームスはデュッセルドルフにいた。ヨアヒムの勧めで、ローベルト・シューマンの邸宅を訪ねたのである。シューマンはブラームスのピアノ・ソナタ第1番 ハ長調の演奏に感銘を受け、第1楽章を聴き終えた時点で妻のクララを呼び寄せ、夫妻そろってもう一度冒頭から演奏を聴いたという。シューマンは自身が創刊した音楽雑誌『新音楽時報』において、ブラームスを絶賛する評論「新しい道」を載せ、シューマンの作品を世に送り出すべく奔走した。ブラームスもシューマンを尊敬し、またその妻クララとも親しく交流した。このあたり、シューマンに「諸君、脱帽したまえ。天才だ!」と誌上で絶賛されたものの、あまりの持ち上げぶりに当惑し、シューマンと距離を置いたショパンとは対照的である。
 1852年12月17日、ライプツィヒのゲヴァントハウスで行われた演奏会で、ブラームスは自らの演奏でピアノ・ソナタ第1番 ハ長調を公開初演し、作曲家としてのデビューを果たした。客席にいたエクトル・ベルリオーズも作品を絶賛した。この初演にあわせて、シューマンの紹介でドイツの大手楽譜出版社ブライトコプフ・ウント・ヘルテルからピアノ・ソナタ第1番が記念すべき「Op.1」として出版された。シューマンとの出会いがなければ、作曲家としてのデビューはもっと遅くなったか、あるいは地味なピアニストで終わっていたかもしれない。「持つべきものは友」ということであろう。
 ブラームスのシューマンと妻クララへの敬愛は深く、1854年にシューマンがライン川に身投げする騒動を起こして入院した際は、デュッセルドルフへ駆けつけてシューマン家の家政を助けた。一説には、ブラームスはクララに恋をしていたとも言われているが、彼はあくまで「友人」という立場を貫き通した。
 1857年にはリッペ=デトモルト侯国(現在のドイツのリッペ郡に相当)の宮廷に招かれ、宮廷音楽家として勤務した。数年前までは地味な「ピアノ弾き」だったことを思えば、これは大出世である。1862年には高名な合唱団であるウィーン・ジングアカデミーの指揮者として招聘され、1864年まで務めた。これを機にブラームスはウィーンへ拠点を移す決意を固め、1871年に転居した。
 1876年には、19年の歳月をかけて作曲した交響曲第1番 ハ短調を発表し、ドイツの交響曲の歴史に名を刻んだ。第1番を書くのに19年かかったわりに、第2番は1年足らずで書き上げ、翌1877年に発表した。1889年12月2日には、作曲家として貴重な経験をした。トーマス・エジソンの代理人の依頼で、《ハンガリー舞曲》第1番とヨーゼフ・シュトラウスのポルカ・マズルカ《とんぼ》を、蝋管式蓄音機に録音した。この録音は日本のテレビ番組でも過去に紹介されている。
 ブラームスは録音の時の演奏に不満を感じ、ピアノも作曲も引退することを決意したが、それを撤回することとなる出会いが待っていた。1891年、クラリネット奏者のリヒャルト・ミュールフェルトの演奏を聴いたことをきっかけに、《クラリネット三重奏曲》 Op.114、さらには《クラリネット五重奏曲》 Op.115など、今日でもクラリネットの重要なレパートリーとなっている名作を書き上げた。
 1896年5月20日にクララ・シューマンが死去すると、後を追うようにブラームスは1897年4月3日に肝臓がんでこの世を去った。いま、彼はウィーン中央墓地に眠っている。

ブラームスのピアノ独奏曲

 ブラームスは、完璧主義的な傾向と自己批判の精神が強く、初期の作品をほとんど破棄している。そうした中で、破棄を免れた初期の作品のひとつが、1852年に書いたピアノ・ソナタ第2番 嬰ヘ短調 Op.2である。出版順序の関係で「第2番」となったが、ブラームスにとって最初に完成したピアノ・ソナタで、オーケストラ的な響きをもつ点においてベートーヴェンの影響が濃厚である。
 作曲家デビュー作となったピアノ・ソナタ第1番 ハ長調 Op.1は、ピアノ・ソナタ第2番より着手は早かったのものの、一時作曲が中断されたという経緯がある。オーケストラの全合奏を思わせる第1楽章の第1主題は、ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第29番《ハンマークラヴィーア》の影響が指摘されているほか、第4楽章の主題としても活用されており、こうした手法もまたベートーヴェン的である。
 しかし、これらのふたつのピアノ・ソナタは単にベートーヴェンの模倣というわけではない。いずれの作品も、第2楽章に古いドイツ民謡を主題とする変奏曲が置かれており、第3楽章はスケルツォでありながら、ベートーヴェンが書いたおどけた性格のものではなく、独特の切迫感をもっている。
 1853年に作曲したピアノ・ソナタ第3番 ヘ短調 Op.5は、5楽章形式であること、第1楽章の半音階的に下降するベース・ラインの書法と巧みな転調や、〈回想〉と題した第4楽章の間奏曲が葬送行進曲的な性格を有していることなど、ベートーヴェンの影響を脱し始めていることをうかがわせる傑作である。
 初期作品から一気に時代を飛び越えて、最晩年の作品から《4つの小品》 Op.119をピックアップ。生前最後に出版された作品番号付きの作品となった。ロ短調、ホ短調、ハ長調の3つの〈間奏曲〉と変ホ長調〈ラプソディ〉の4曲から成り立っている。単一の主題を執拗に繰り返すホ短調の〈間奏曲〉や、拍子の感覚が揺らぐハ長調の〈間奏曲〉、そして堂々たるスケール感を持つ〈ラプソディ〉も名曲であるが、本稿ではやはりロ短調の〈間奏曲〉に注目したい。この曲は、舞い落ちる木の葉のような下降する音形と、寂しくつぶやくような旋律が印象的だが、実は極めて多層的な構造をもち、ブラームスのあらゆるピアノ曲の中でもっとも「オーケストラ的」かもしれない。さらに、この曲の冒頭3小節間は、ポビュラー音楽でいうところの「9th(ナインス)」の和音が用いられており、調性が定まらない。独特の浮遊感は、最晩年のブラームスが新時代の扉を開いたことを示している。

ブラームスの変奏曲

 変奏曲といえば、ひとつの主題をさまざまに変化させることが特徴であり、作曲家の腕の見せどころだ。ブラームスはこのジャンルを得意としており、いくつもの傑作を残している。
 1861年にはシューマンが生涯最後に書いた通称《天使の主題による変奏曲》の主題を用いて、連弾のための《シューマンの主題による変奏曲》 Op.23を書いている。
 ブラームスにとって、変奏曲というジャンルへの自信を深める作品となったのは、1861年にクララ・シューマンによって初演された、《ヘンデルの主題による変奏曲とフーガ》 Op.24であろう。ヘンデルの《クラヴィーア組曲第2巻》第1曲の第3楽章〈エア〉を主題とするこの作品では、ヘンデルやJ.S.バッハの影響を受けつつも、ピアノの性能を活かし変化に富んだ書法がみられ、葬送行進曲、シチリアーナなどさまざまなジャンルを自在に渡り歩くさまはみごとだ。高い技術で、古い作品に新鮮さを与えたとして、リヒャルト・ワーグナーもこの作品を高く評価していたことで知られる。
 1863年には、パガニーニの《カプリッチョ第24番》を主題とした、《パガニーニの主題による変奏曲》 Op.35を完成させた。主題と12の変奏という形態からなる2巻の変奏曲は、技巧面でブラームスのピアノ独奏曲の頂点を成している。
 1873年に完成させた《ハイドンの主題による変奏曲》は、2台ピアノ版(Op.56a)とオーケストラ版(Op.56b)の2種類が書かれている。作曲当時ハイドン作とされていた「聖アントニウスのコラール」(※真の作者はいまだに確定していない)を主題とする本作は、特にオーケストラ版が、管楽器を多用しつつも透明感のあるオーケストレーションによって好評を博している。

ブラームスの室内楽曲

 ブラームスは室内楽の分野でも傑作を数多く残している。1861年に発表したピアノ四重奏曲第1番 ト短調 Op.25は、第4楽章が「ジプシー風ロンド」と題され、ロマの音楽を思わせる激情的な旋律が書かれている。
 1878年から1879年にかけて、オーストリア南部の避暑地ペルチャハで作曲された、ヴァイオリン・ソナタ第1番《雨の歌》 Op.78は、ブラームスが自作の歌曲《雨の歌》 Op.59-3を第3楽章に引用したことから、この名で呼ばれる。ヴァイオリンとピアノの絡ませ方のみごとさは、名手ヨーゼフ・ヨアヒムとの長い交友関係の賜物であろう。
 1891年の夏に、避暑地のバート・イシュルで作曲された《クラリネット五重奏曲》 Op.115は、一度は引退を決意したブラームスが、クラリネット奏者のリヒャルト・ミュールフェルトのために書いた作品である。公開初演直後から大好評を博した本作は、弦楽四重奏とクラリネットが織りなす響きの豊かさと抒情性に富んだ旋律美によって、クラリネット奏者にとって欠かせないレパートリーになっている。

ブラームスの歌曲

 生涯に数多くの歌曲を残したブラームスは、意外にも、複数の歌曲が連関をもつ「連作歌曲集」を少ししか残していない。そのひとつが、1861年から1869年にかけて作曲した《ティークのマゲローネによるロマンス》 Op.33である。ルートヴィヒ・ティークの小説『美しきマゲローネとプロヴァンスのペーター伯爵との不思議な恋物語』から15編の詩を抜き出して作曲したもので、豊かな伴奏の書法と親しみやすい旋律とで長く愛される作品となっている。ナレーションを加えて物語の筋を追いやすくした、ある種の「モノ・オペラ」的な扱いによる演奏が行われる場合もある。
 1896年5月7日、ブラームスにとって最後の誕生日に完成した、バス独唱とピアノのための《四つの厳粛な歌》 Op.121は、ルター派の聖書から4つのテキストを選び出して作曲した連作歌曲集である。第3曲〈おお、死よ〉において、独唱が歌う三度下降する音形が全曲に散りばめられていることや、独唱とピアノが1本の旋律を時間差で追いかける「カノン」の書法を採っていることについて、その先進性をのちにアルノルト・シェーンベルクが高く評価したと伝えられており、最晩年のブラームスの「未来志向」を示している。
 「後編」では、ブラームスの協奏曲や交響曲をはじめ、より規模の大きい作品について紹介する。

<文・加藤新平>

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