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Program library Vol.6 團伊玖磨

Program library Vol.6 團伊玖磨
 コンサートをより楽しむには、その演奏される曲を理解しておくことが大切。作品が世に出るまでのエピソードや人気の背景を知れば、コンサートがさらに楽しくなることでしょう。そこでスタートした、コンサート・プログラムを簡単に予習する特集企画「Program library」。  Vol.6は2024年で生誕100年を迎える、團伊玖磨。中学校の音楽の授業でその名前を耳にしたことのある方も多いかもしれませんが、團伊玖磨は戦後の日本が文化面、特に音楽の分野において世界へ力を示す指標ともなった「純日本産のオペラ」を作り上げた人物です。またテレビの発展と共に生きた作曲家なので、知らず知らずのうちに日本人の耳になじんでいる音楽を数多く作り上げています。

はじめに

 2024年はグルック生誕310年、ブルックナー生誕200年、シェーンベルク生誕150年などなど、アニヴァーサリーを迎える作曲家が目白押しである。
 生誕100年を迎える作曲家のひとりが、團伊玖磨(だん・いくま)だ。「ららら♪クラブ」読者のみなさまの中には「團伊玖磨? 知らない作曲家ですね……」という方もいらっしゃることだろう。しかし、実は日本に暮らす人なら一度は聴いたことのある名曲をいくつも書いているのだ。そんな團伊玖磨の生涯と作品を簡単にご紹介したい。

超概略・團伊玖磨の生涯

 團伊玖磨は、美術史家・実業家・政治家として活躍した團伊能の子として1924年に東京で生まれた。父・伊能は、美術史家としては東京帝大助教授として後進の指導にあたり、実業家としてはブリヂストン自転車工業(現・ブリヂストンサイクル)社長、プリンス自動車(現・日産自動車)社長などを歴任し、戦前から戦後にわたって貴族院・参議院議員を務めた人物である。
 1937年、13歳で青山学院中等部に入学したころからピアノ曲や歌曲の作曲を始めたが、伊玖磨少年が音楽家を目指していることに父は不安を隠せなかった。一計を案じた父は、旧知の仲の作曲家である山田耕筰に連絡し、息子を連れて行くので音楽の道に進むのを諦めさせてほしいと依頼した。
 1938年6月、父に連れられて伊玖磨少年は山田耕筰と面会した。彼は、ひととおり伊玖磨少年の話を聞いたあと、持参したピアノ曲や歌曲には目もくれず、じっと伊玖磨少年の顔を見つめて、「作曲をやらせましょう」と断言した。一説によれば、当時の山田は骨相学に凝っており、伊玖磨少年の骨格に「将来性」を感じたとも言われている。
 父からすれば山田の反応は約束が違い、まさしく青天の霹靂であったが、伊玖磨少年は東京音楽学校の受験を目指すこととなった。1940年からは東京音楽学校の教師である下総皖一に師事し、1942年に東京音楽学校作曲部にみごと合格を果たした。作曲部の合格者は例年1~2名だったが、1942年の合格者はなんと7名もいた。これは、太平洋戦争開戦後の状況を反映して、いずれ学徒動員で戦死者が出ることを想定したものだったと言われている(実際、團伊玖磨と作曲部で同期入学の村野弘二は、のちにルソン島で戦闘の果てに自決している)。
 1943年には、芥川龍之介の三男、芥川也寸志が後輩として入学してきた。早速意気投合したふたりであったが、東京音楽学校での学生生活は1944年10月に打ち切られ、1945年4月にふたりそろって陸軍戸山学校軍楽隊作曲係上等兵として合格し、作曲室に配属された。
 作曲室で吹奏楽の編曲を多数手がけたことで、團伊玖磨は管楽器の扱いに精通するようになった。1945年8月15日に日本が敗戦すると東京音楽学校に復学したが、戦後の混乱で授業は殆ど無く、同年10月1日で繰り上げ卒業となった。彼は後年、音楽学校の勉強より軍楽隊のほうがためになった、と語っている。
 戦後すぐに、東京音楽学校の主任教官だった橋本國彦の紹介で声楽家の四家文子を紹介され、《六つの子供の歌》をはじめとする歌曲を四家のために作曲した。四家は演奏会やNHKのラジオ放送で積極的に團伊玖磨の作品を取り上げ、テノール歌手の木下保をはじめ多くの歌手を彼に紹介した。こうして、團伊玖磨はまず歌曲作曲家として歩み始めることとなった。プロの作曲家としてデビューしたものの、戦時中の混乱で満足に勉強できなかった彼は、1945年の暮れから翌年にかけて、諸井三郎に対位法とフーガ、楽曲分析を、近衛秀麿から指揮法と管弦楽法を学んだ。
 1952年には『戦国無頼』で映画音楽作曲家としてもデビューし、映画音楽の仕事を通して京都で顔を合わせた團伊玖磨、芥川也寸志、黛敏郎の3人は「3人の会」を結成した。この「3人の会」の作品発表会は、日本の近現代音楽の歴史に残る意欲作を数多く世に送り出していった。
 1967年には日本芸術院賞を受賞し、1968年からは日本テレビ系列「だんいくま ポップスコンサート」の指揮と解説を務めた。また、1964年から始まった連載「パイプのけむり」をまとめた『パイプのけむり』『続・パイプのけむり』で、1968年の第19回読売文学賞を受賞した。テレビの仕事では、芥川也寸志といった現代音楽の旗手たちだけでなく、淡島千景、加山雄三、黒柳徹子、岡本太郎、遠藤周作、寺山修司、三船敏郎など、さまざまなジャンルの著名人と共演を重ねた。
 1973年には日本中国文化交流協会常任理事に就任するとともに、日本芸術院会員に選出された。1979年には中国における日本のオペラの初公演として《夕鶴》が上演され、1984年には北京で「團伊玖磨交響楽作品演奏会」が開催された。また、1985年には平壌で開催された「4月の春 親善芸術フェスティバル」に日本音楽家代表団団長として参加し、朝鮮国立交響楽団を指揮した。現在のぎくしゃくした日中関係や、冷え込んだ日朝関係からすれば、團のこうした取り組みは隔世の感がある。
 中国をはじめとするアジア諸国との音楽交流に尽力するかたわら、1985年には交響曲第6番《HIROSHIMA》を発表するなど、平和への願いも力強く訴え続けた。1997年には新国立劇場のこけら落としとしてオペラ《建・TAKERU》を発表し、1999年には文化功労者に列せられた。
 2001年5月、日本中国文化交流協会の親善旅行中に中国の蘇州市で急逝した。享年77歳。戦前戦後の混乱期、高度経済成長期、そしてバブル経済とその崩壊の時代を、作曲家として駆け抜けた生涯だった。

團伊玖磨の作品紹介

ここからは、彼の作品を概ね時系列順にご紹介する。

歌曲《花の街》(1948年)

 ロマンティックな前奏に続いて、明るく、それでいて少し切なさも感じさせる旋律が歌われる《花の街》は、中学校の『音楽』の教科書に掲載されたことで、多くの人が学校で歌った経験をもつ作品であるだけでなく、音楽教員を目指す若者が一度は触れる曲でもある。
 教育音楽の世界において確固たる地位を占めるこの曲は、当時、團伊玖磨の家の近所にNHKラジオ「婦人の時間」の担当者が住んでいたことが縁で書かれたものであった。
 1947年、東京の街には戦災孤児や傷痍軍人があふれ、瓦礫の山があちこちに残っていた。焦土と化した街に立って、戦争の苦しみや悲しみに想いを寄せつつ、花々が空に浮かぶ平和な街を思い描いた詩人の江間章子の想像力に團は感銘を受けて、《花の街》を完成させたのである。
 この曲の発表後、團はNHKの専属作曲家となった。作曲料は安く生活は苦しかったが、裕福な実家からの援助が父の意向で停止された團にとって、経済的自立への第一歩となった。

童謡《ぞうさん》(1949年)

 日本における「童謡」といえば、真っ先に挙がるのがこの《ぞうさん》だろう。この作品もまた、《花の街》と同様に、太平洋戦争がもたらした悲しみと戦後復興への希望から生まれている。
 1943年8月、非常時における猛獣処分の計画が発動され、上野動物園ではインドゾウ3頭を含む14種27頭が処分された(このできごとは、のちの1951年に土家由岐雄の童話『かわいそうなぞう』として発表され、1970年には同名の絵本となっている)。
 戦後、GHQによる民主主義教育の一環として各地に「子ども議会」が結成され、台東区の子ども議会が「上野動物園に再び象を」という運動を活発に展開した。参議院に請願をするなどの積極的な活動が実を結び、インドのネルー首相(当時)の取り計らいで、首相の愛娘と同じ「インディラ」と名付けられた牝象が上野動物園へ贈られることとなった。
 まど・みちお作詞、團伊玖磨作曲による《ぞうさん》は、1949年秋に上野動物園で行われたインディラのお披露目式で初演され、NHKの「うたのおばさん」の歌となって全国へと広がっていったのである。

《交響曲イ調》(1950年)

 歌曲や童謡の作曲家としてデビューし、NHKでも作品が演奏されるなど作曲家として歩み始めた團であったが、生活は楽ではなかった。そして、「楽壇」に認められるためにはオーケストラ曲で評価されることがどうしても必要であった。
 1950年にNHK創立25周年記念管弦楽曲公募に応募した、この《交響曲イ調》(のちに「交響曲第1番」となる)は、最終選考で盟友、芥川也寸志の《交響管弦楽のための音楽》と特賞を争うこととなった。
 審査員は悩みぬいた末に、團と芥川の両方に特賞を授与すると決定した。そして、副賞として賞金10万円が与えられた。当時の10万円といえば、一軒家が買えるほどの大金であり、この賞金を元手に團は鎌倉の二階堂へ転居した。《交響曲イ調》のおかげで、彼は貧乏暮らしを脱出したのである。
 ソナタ形式の第1楽章、アダージョ楽章の抒情性、スケルツォの諧謔性、そして最終楽章の高揚感を19分程度の単一楽章にまとめ上げるという斬新な構成と、ギリシア旋法を採用した「長調でも短調でもない、懐かしいようでどこか新しい、明暗を行き来する響き」とによって、短いながらも極めて充実した作品となっている。

《ラジオ体操第2》(1952年)

「ラジオ体操」と聞いて思い起こされるのは、やはり夏の朝、風の涼しさと陽の光の暑さとが交錯するあの時間だろう。実はよく知られている「あの曲」は、一般家庭向けに服部正が作曲した《ラジオ体操第1》である。
 「ラジオ体操」には、一般家庭向けの「第1」とは別に、職場向け、かつ青年・壮年層を対象として作られた「第2」がある。《ラジオ体操第2》が1952年に3度目のリニューアルを迎えるにあたって作曲を担当したのが、團伊玖磨であった。
 ユーモラスでいて運動負荷が強めの動きが特徴の「第2」を作曲するにあたり、團は実際に振り付けを確認しながら作曲を行った。軽妙洒脱な「第1」と違って、この曲は格調高く少し憂いを含んだ雰囲気が特徴である。《ラジオ体操第1》の続きとして一緒におこなわれることも多いので、多くの方が耳にしたことのある團作品の代表であろう。

オペラ《夕鶴》(1952年)

「夕鶴」より“私の大事な与ひょう”

 團伊玖磨は、1946年に日本音楽連盟主催のコンクールで独唱と管弦楽のために《ふたつの叙情詩》が入選し、初演されたときに音楽評論家の大田黒元雄と知り合って以来、大田黒に教えを乞うてオペラの研究を進めてきた。また、1949年に劇団「ぶどうの会」とその指導者で劇作家の木下順二と出会い、舞台音楽の作曲家・指揮者としての経験を『彦市むかしばなし』『夕鶴』の2作で積んだ。
 劇音楽『夕鶴』を何度も指揮する中で、これこそオペラにふさわしいと考えた團は、作者の木下順二にオペラ化を打診した。しかし、原作者とは別に台本作者を立てて作品を書き換えることが慣例となっているオペラは木下の美学にそぐわず、一度はオペラ化を断ってきた。オペラ研究の師匠ともいえる大田黒の助言にしたがって、原作そのものにそのまま作曲することを条件に木下の許諾をとりつけ、1950年から作曲を開始した。
 この作品は1952年1月30日に大阪で初演され、同年には東京で初演された。その後、日本人が書いたオペラとして初めてヨーロッパで演奏されたことを皮切りに、国際的にも認知された国産オペラの重要なレパートリーとなっている。
 《夕鶴》は、「鶴女房」「鶴の恩返し」などの民話を題材とした作品で、主人公の「つう」(女性の姿をした鶴)は幻想世界の清純な美の象徴、そして「つう」と話が通じない、「運ず」と「惣ど」というふたりの男は現実世界の物欲の象徴である。「つう」の夫の「与ひょう」は次第にふたりの男に毒され、物欲にまみれてゆく中で「つう」と言葉が通じなくなってしまう。
 2時間に満たない一幕ものの作品であるが、ふたりの男にそそのかされて、金儲けのことばかり考える「与ひょう」の心が自分から離れていくことの不安を歌う〈つうのアリア〉をはじめ、透明感にあふれ、日本人の琴線に触れる旋律で満たされている。作品の冒頭と終結部に歌われる子どもたちの歌声の、わらべうたのような素朴さも胸を打つ。

《祝典行進曲》(1959年)

 陸軍戸山学校軍楽隊で編曲家として働いた経験を活かして、のちに書かれた作品のひとつが《祝典行進曲》である。
 1959年、皇太子明仁親王(当時)の結婚を祝うために依嘱され、「平和の喜びの足音」をイメージして書かれた本作は、行進曲のもつ戦争の記憶を払拭し、日本の吹奏楽の歴史に残る作品となった。マーチ部分、トリオ部分ともに、明るさと喜ばしさに満ちており、華麗で立体的なオーケストレーションと、楽器の性能を活かしきった書法は、まさに青春時代に磨いた技術の集大成である。
 なお、團伊玖磨は1992年に葉山御用邸で天皇陛下御一家と歓談の機会を持ち、その席で皇太子徳仁親王(当時)のご成婚を祝う《新・祝典行進曲》の作曲を約束した。翌1993年に献上されたこの曲は、洒落た響きの和音と流麗な旋律とで、1959年の《祝典行進曲》と並ぶ日本の吹奏楽界の名曲となっている。

混声合唱組曲《筑後川》(1968年)

 團伊玖磨は、祖父の出身地である九州や、自身が暮らした三浦半島や横須賀など、いくつかの「土地」と結びついた作品を残している。
 丸山豊の作詞による混声合唱組曲《筑後川》は、福岡県の久留米音協合唱団創立5周年記念作品として委嘱された。
 無伴奏で立体的に歌い始められるオープニングが印象的な〈みなかみ〉、ダムの威容を高らかに歌う〈ダムにて〉、川を泳ぐ魚と漁師の姿をゆったりと描き出す〈銀の魚〉、土俗的で浮き立つリズムの〈川の祭〉、そして堂々たるフィナーレを迎える〈河口〉の5曲から成り立っている本作は、委嘱作品にありがちな一過性のものではなく、合唱界のレパートリーとして長く残ることを願って書かれたものである。
 特に高揚感あふれる第5曲〈河口〉は人気が高く、1986年にはNHK全国学校音楽コンクール高等学校部門の課題曲に採用されたほか、1988年には高校の音楽の教科書に掲載され、九州のみならず全国の学校で卒業式の定番ソングとなっている。
 「フィナーレを、フィナーレを」と歌い出し、「筑後川、筑後川、そのフィナーレ、ああ!」と高らかに歌い上げる合唱曲……といえば、「ああ、あの曲か!」とお気づきの読者も多いのではないだろうか。

團伊玖磨の作品の特徴

 團伊玖磨は、歌曲や童謡だけでなく、管弦楽曲、吹奏楽曲、ピアノ曲、合唱曲、オペラ、さらには映画音楽などさまざまなジャンルで傑作を残した。
 そんな團の作品の特徴は、あえて言えば「奇をてらわないこと」と「わかりやすさ」にあるだろう。
 戦後に入って、現代音楽の世界は大きな変革の時を迎えており、「前衛」であることこそが「現代音楽作曲家」としての評価基準となっていた。しかし、彼はそうした時代の流れに安易に身を任せることなく、作曲上の特定の「流派」になびくこともなく、自分が書かねばならない音を追究し続け、聴衆と演奏者のほうを向いて書き続けた。
 團伊玖磨を「現代音楽」の文脈で評価することは難しいだろう。しかし、彼は彼なりに「現代」と向き合い、「現代の音楽」を書き続けていた。彼の音楽には、楽曲構成とオーケストレーションと楽器法の確かな技術と、持って生まれた才能からほとばしる格調高い旋律がある。
 間違いなく彼は日本が生んだ偉大な作曲家のひとりである。

<文・加藤新平>

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