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Program library Vol.4 シュトラウス家の音楽 ~ヨハン・シュトラウスⅠ世~

Program library Vol.4 シュトラウス家の音楽 ~ヨハン・シュトラウスⅠ世~
ヨハン・シュトラウスⅠ世とヨーゼフ・ランナーの像
 コンサートをより楽しむには、その演奏される曲を理解しておくことが大切。作品が世に出るまでのエピソードや人気の背景を知れば、コンサートがさらに楽しくなることでしょう。そこでスタートした、コンサート・プログラムを簡単に予習する特集企画「Program library」。  Vol.4は「シュトラウス家」。クラシック音楽的には新年の風物詩でもある「シュトラウス」ですが、ベートーヴェンやブラームスのようにひとりの「シュトラウスさん」として著名なわけではなく、バッハ一族のようにファミリーで名を遺した一家です。ニューイヤー・コンサートの前にぜひ、シュトラウス家についての知識を深めてみてはいかが?

「シュトラウス家」とは

 「シュトラウス家」と聞いて、すぐに「ウィーン」「ワルツ」「ニューイヤー」といったキーワードが浮かんだ方は、間違いなく筋金入りのクラシック音楽ファン。
 音楽史を紐解くと、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトとその息子フランツ・クサーヴァー・モーツァルト、リヒャルト・ワーグナーとジークフリート・ワーグナーのように、親子そろって作曲家というケースは意外に多いことがわかる。しかし残念ながら現代における彼らの著名度を考えると、フランツ・クサーヴァーが、ジークフリートが、作曲家として成功したと断言できる状況ではないことは、「ららら♪クラブ」読者の皆さまもよくご存じのことだろう。
 親子そろって音楽家として成功した家系といえばまず「バッハ家」が挙げられる。そしてもうひとつが「シュトラウス家」であろう。

 「シュトラウス家」の家祖は、1750年ごろにハンガリーからオーストリアへやってきたヨハン・ミヒャエルというハンガリー系ユダヤ人であった。結婚を機にキリスト教へ改宗する際、オーストリア当局によってあてがわれた姓こそが「シュトラウス」である。「バッハ(小川)」、「シューマン(靴屋)」など、はっきりした意味合いを持つ姓がドイツ語には数多くある。では「シュトラウス」とはどういう意味か……というと、これがなんと「ダチョウ」。当時のオーストリアは、キリスト教に改宗するユダヤ系移民に対して、ユダヤ系であると識別可能であり、差別的な姓を割り当てるといった対応をしていた。「シュトラウス」もそのひとつである。
 ヨハン・ミヒャエルから始まったシュトラウス家が、音楽史上に燦然と輝き始めるのは、彼の孫ヨハン・シュトラウス(以下、ヨハン・シュトラウスⅠ世と表記)の代からであった。

ヨハン・シュトラウスⅠ世の前半生

 ヨハン・シュトラウスⅠ世は、1804年に居酒屋経営者のフランツ・ボルギアス・シュトラウスの息子、そしてシュトラウス家開祖であるヨハン・ミヒャエル・シュトラウスの孫としてウィーンに生まれた。その幼少期は壮絶なもので、父が経営する居酒屋が不景気で倒産、母は病死、父は借金苦で自ら命を絶ち、4歳にして孤児となってしまった。親戚の家に引き取られて、製本業者で奉公人として働いていたという。
 音楽とは無縁で、赤貧洗うがごとしの丁稚奉公をしていた彼が音楽の道に進むきっかけとなったのは、近所に住んでいた楽士のポリシャンスキーだった。製本業者のもとを飛び出した彼はポリシャンスキーのもとでヴァイオリンを学び、居酒屋で弾く“流し”のヴァイオリン弾きとなったのである。
 さて、ここまで話の流れからは、のちに「ワルツの父」と呼ばれることになるキャリアなど、想像もつかないというのが正直なところだろう。流しのヴァイオリン弾きにとって「一発逆転」への足がかりとなったのが、1825年、ミヒャエル・パーマーの率いる楽団への入団であった。パーマーはウィンナ・ワルツの創始者とも言われる人物で、それまで庶民のダンス音楽に過ぎなかったワルツに、序奏とコーダを加えて洗練させ、ウィーンの社交界で親しまれるようなものへと作り替えたことで知られていた。
 この楽団で、ヨーゼフ・ランナーというヴァイオリニストと親交を結び、性格は真逆ながらも意気投合して、一緒に下宿生活を送るようになった。
 パーマーの楽団での生活は決して楽ではなかった。団長のパーマーは酒豪かつ大食漢で、楽団員に払うべき給料さえ自身の飲み食いに使ってしまうほどであった。ヨーゼフ・ランナーがとうとうこの楽団を逃げ出して独立し、ヨハン・シュトラウスⅠ世も後を追ってランナーの楽団に加わった。
 パーマーの楽団からの脱退こそが、ランナーを、そしてヨハン・シュトラウスⅠ世を作曲の道に向かわせることとなった。なぜならば、パーマーの作品を演奏することができなくなり、代わりの作品が必要とされたからである。

ヨーゼフ・ランナーとの対決

 ここからは、あえて「対決」というキーワードにしぼってヨハン・シュトラウスⅠ世の活動を見てゆきたい。
 ヨーゼフ・ランナーの楽団は大人気を博し、ランナーは数多くの出演依頼に応じるべく楽団をふたつに分け、その片方をヨハン・シュトラウスⅠ世に任せた。大規模なグループが「チーム」に分かれていることによって、「チーム」同士の人気争いが過熱するということは、現代日本においても某・ふた桁の数字を冠したアイドルグループでも証明されているが、ランナーの楽団もまさに同じ道をたどった。某アイドルグループとの決定的な違いは、ヨハン・シュトラウスⅠ世の「チーム」のほうが人気なことを、ランナーが疎ましく思い始めたことであった。もともと性格が真逆であったふたりがうまくやっていくにはここまでが限界であり、1828年には楽団が分裂した。そして、ランナーの楽団とヨハン・シュトラウスⅠ世の楽団は、ウィーンの街を舞台に華麗なる「ワルツ合戦」を繰り広げることとなった。
 ランナーはオーストリア国内に閉じこもって活動していたのに対して、ヨハン・シュトラウスⅠ世は積極的に外国への演奏旅行にも出かけてゆき、それまでウィンナ・ワルツを軽んじていた外国の人々をワルツの虜にしていった。一方で、演奏旅行に出かけるたびに外国の舞踏形式をいち早く習得してウィーンにこれを紹介し、ダンス熱をさらに高めていった。1831年にはランナーと和解したが、その後の関係は以前のような親友としてのものではなく、仕事上のライバルに留まった。

息子との対決

 1843年にランナーが死去したあと、1844年にある若手音楽家がデビューし、瞬く間にヨハン・シュトラウスⅠ世のライバルに位置付けられた。息子のヨハン・シュトラウスⅡ世である。息子には安定した職に就いてほしいと願う父ヨハンは、音楽家になりたいという息子の願いをはね退けて総合技術専門学校に放り込んだ。しかし息子ヨハンはやがて学校を中退し、音楽家として歩み始めていたのである。父ヨハンⅠ世の怒りはすさまじく、息子に会場を貸さないようウィーンの有名な飲食店にかたっぱしから根回しをしたほか、新聞記者を買収して中傷記事を書かせるほどであった。
 「親子対決」は熾烈を極めた。オペラのアリアをもとにした楽曲における「ネタかぶり」もしばしば起きた。音楽で戦いながら、親子共に着実にキャリアを積み重ねていった。

ヨハン・シュトラウスⅠ世の作品

《ローレライ=ラインの調べ》

 後述の《ラデツキー行進曲》発表以前に、ヨハン・シュトラウスⅠ世の代表作と目されていた作品である。1843年8月に、聖ヨゼフ児童福祉病院のための慈善演奏会で初演された。序奏と「第1ワルツ」から「第5ワルツ」までの5つのワルツで構成されている。序奏では第1ワルツと第4ワルツの素材を用いて期待を高め、ワルツ本編では魅惑的な旋律が次々と紡がれる。「こだま」のような響きを多用していることも特徴だ。コーダの書法でははっきりとヨーゼフ・ランナーとの差別化が図られており、新しい素材を次々に提示するランナーに対して、それまでのワルツの素材を組み合わせて回想しながら締めくくってゆく。この作品で、彼は「ワルツの父」としての立場をより強固なものにしたのである。

《アンネン・ポルカ》

 1827年ごろから、ウィーンでは馬が駆ける様子を模した、跳ねるようなリズムでテンポの速い舞曲「ギャロップ」が大流行していた。ギャロップ・ブームは10年ほど続いたが、その間に次第に跳ねるようなリズムから、少し落ち着いたリズムへと変化していった。文字で示すことは難しいが「ターッタ、ターッタ/タンタタ、タンタタ」というリズムから、「タ、タ、タ、タ/タ、タ、タタタ」という形へと変貌したのである。
 1840年ごろにギャロップ・ブームは収束した。しかし、1839年ごろに新たにウィーンに紹介された舞曲「ポルカ」のリズムとして、落ち着いた方のギャロップのリズムが約2年の時を経て1841年春に復活したのである。
 《アンネン・ポルカ》は、外国への演奏旅行でポルカの情報を仕入れたヨハンⅠ世が、1842年1月に発表した《シュペール・ポルカ》の好評を受けて同年8月に発表した作品である。ギャロップから受け継いだリズムの主部と、シンコペーションが印象的な中間部の対比がおもしろい作品で、ヨハンⅠ世の作曲したポルカの中でも、もっとも演奏機会に恵まれている作品といえよう。ちなみに、息子のヨハンⅡ世にも同名の作品があり、こちらもよく知られている作品である。

《ラデツキー行進曲》

 「ワルツの父」と称されるヨハン・シュトラウスⅠ世だが、彼の作品の中でもっとも世間で広く評価され、知られている作品は《ラデツキー行進曲》であろう。ウィーン・フィルのニューイヤー・コンサートにおいて、アンコールの一番最後を飾る作品として、世界中のクラシック音楽ファンが知る曲である。
 ウィーン市民防衛軍第一連隊軍楽隊長であり、宮廷舞踏会音楽監督も務めていたヨハン・シュトラウスⅠ世は、1848年2月にフランスで発生し3月にオーストリアへ波及した、自由思想に基づく革命に一定の共感をもっていた。メッテルニヒ宰相の抑圧的な政治を革命が終わらせてくれると期待し、《自由行進曲》など革命を支持する作品を相次いで発表した。
 しかし、革命が社会主義的な色彩を帯び、メッテルニヒ打倒ではなくハプスブルク家と王政の打倒へと向かい始めたことで、王政の打倒までは求めていなかった彼は次第に「反革命」「保守派」の立ち位置へと転じていった。そうした中で、1848年8月に開催された、ヨーゼフ・ラデツキー将軍によるオーストリア帝国領北部イタリアの分離独立運動鎮圧祝賀会のために書かれたのが、この《ラデツキー行進曲》である。
 《ラデツキー行進曲》の特徴は、主部の旋律が裏拍に重きを置いた「カドリーユ」の形式になっていることである。行進曲でありながら舞曲のスタイルを取り入れているあたりが、いかにも彼らしいと言えるだろう。この曲の自筆譜は長年行方不明となっており、初版譜以降の出版譜において、トリオの中間部に対旋律がなくあまりに単調であることに疑問がもたれて来たが、1978年、破棄される予定の楽譜の中から自筆譜が発見され、初版譜にはない対旋律が書かれていることが明らかとなった。自筆譜に基づく楽譜は「オリジナル版」と位置付けられ、2001年にはウィーン・フィルのニューイヤー・コンサートでも演奏された(ただし、現在まで広く演奏されているのは、「オリジナル版」と異なる編曲版である)。
 《ラデツキー行進曲》は政府軍の士気を大いに高め、最終的には革命の鎮圧に一役買うこととなった。これによってヨハン・シュトラウスⅠ世は保守派から「ウィーンを革命から救った」と評価され、《ラデツキー行進曲》はオーストリアという国を象徴する楽曲となったのである。
 《ラデツキー行進曲》の発表の翌年、彼は猩紅熱にかかって急死した。この作品は、彼にとって文字どおり最後の成功作であった。彼は友人にしてライバルであったランナーの隣に埋葬された。デブリング墓地からウィーン中央墓地へ改葬されたあとも、ふたりは並んで眠っている。

ヨハン・シュトラウスⅡ世の生涯を追う「中編」へ続く。

<文・加藤新平>

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