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Program library Vol.4 シュトラウス家の音楽 ~ヨハン・シュトラウスⅡ世~

Program library Vol.4 シュトラウス家の音楽 ~ヨハン・シュトラウスⅡ世~
ウィーン市立公園にあるヨハン・シュトラウスⅡ世像
 コンサートをより楽しむには、その演奏される曲を理解しておくことが大切。作品が世に出るまでのエピソードや人気の背景を知れば、コンサートがさらに楽しくなることでしょう。そこでスタートした、コンサート・プログラムを簡単に予習する特集企画「Program library」。  Vol.4は「シュトラウス家」。クラシック音楽的には新年の風物詩でもある「シュトラウス」ですが、ベートーヴェンやブラームスのようにひとりの「シュトラウスさん」として著名なわけではなく、バッハ一族のようにファミリーで名を遺した一家です。ニューイヤー・コンサートの前にぜひ、シュトラウス家についての知識を深めてみてはいかが?
ヨハン・シュトラウスⅠ世の生涯を追う「前編」からの続き

ヨハン・シュトラウスⅡ世の生涯

 「ワルツの父」ヨハン・シュトラウスⅠ世は、元々は「ワルツ王」と呼ばれていた。この称号を受け継いだのが、息子のヨハン・シュトラウスⅡ世である。
 彼は1825年に、ヨハン・シュトラウスⅠ世の長男として生まれた。前編でも触れたように、父ヨハンⅠ世は息子たちが音楽家を目指すことに猛反対していた。その姿勢は徹底しており、わずかにピアノに触れることを許したほかは、楽器を演奏することを禁じていた。そうした中でも幼少期から作曲に取り組み、父に隠れてヴァイオリンの手ほどきを受けた。
 音楽家を目指す我が子を音楽から遠ざけようとする父によって、総合技術専門学校への進学を強要されたヨハン・シュトラウスⅡ世は、ひそかにヴァイオリンや和声学の学習を続け、19歳のときに音楽家としてのデビューを飾ることとなった。
 ヨーゼフ・ランナー亡きあと、ウィーンの音楽界の帝王として君臨していたヨハン・シュトラウスⅠ世にとって、同姓同名の息子のデビューは脅威であった。父が息子に対して行った妨害工作の苛烈さは、前編で述べた通りである。父の妨害にめげず、父の楽団が関わっていない飲食店に積極的に営業をかけ、若手の音楽家を集めて、いよいよデビュー公演の日を迎えた。1844年10月15日のことであった。
 このデビュー公演について、『デア・ヴァンダラー』誌上でフランツ・ヴィーストが「おやすみランナー、こんばんはシュトラウスⅠ世、おはようシュトラウスⅡ世!」という言葉を残した……というのは有名な逸話であるが、デビュー公演のポスターには「ヨハン・シュトラウス」と書かれており、当時の「ワルツ王」父ヨハンを想起させていたほか、コンサートの締めくくりに演奏されたのも父の代表作であるワルツ《ローレライ=ラインの調べ》であった。どれほどの妨害を受けようとも、彼は父への敬意を忘れてはいなかったのである。
 デビュー公演こそ父の威光を借りたような格好になったが、それ以降は自立した音楽家として着実に歩みを進め、ウィーンにおける評価を揺るぎないものとした。父との「ワルツ合戦」の熾烈さは、ウィーンっ子を熱狂させた。
 父が保守派の立場から《ラデツキー行進曲》を書くにいたるきっかけとなった1848年の革命に、当時ウィーン市民防衛軍第二連隊音楽隊長も務めていたヨハン・シュトラウスⅡ世は、革命支持者として参加した。《自由の歌》などを作曲して革命を支持するそのあり方は、革命当初の父と同じだった。
 しかし、父が「王政打倒への反対」という政治的な信念をもって反革命の立場に転じたのに対して、ヨハン・シュトラウスⅡ世は「飽きた」というとても軽い理由で革命から離れて行った。革命に関わっていたころ、オーストリア帝国では演奏禁止曲だった《ラ・マルセイエーズ》を演奏したことで、しばらくの間警察に監視を受けるというおまけがついた。
 1849年に父ヨハンⅠ世が亡くなると、父の楽団を吸収合併して、ウィーンにおける自身の立ち位置をさらに強固なものにした。しかし、革命の際のふるまいが原因で帝室に目をつけられており、次第にハプスブルク家との関係は改善したものの、父の役職だった宮廷舞踏会音楽監督の座を引き継ぐことができたのは、父の死から15年近く経った1863年のことであった。
 1856年以降、ロシアの鉄道会社と契約して、夏に開催されるパヴロフスク駅舎での演奏会の指揮者となった。ロシア皇帝アレクサンドルⅡ世をはじめ、ロシア帝室に気に入られた彼は、1865年までの間、1年の半分をロシアで過ごすようになった。
 1870年、母親のアンナや弟のヨーゼフをはじめ、身内を相次いで亡くしたことで意気消沈した彼は、妻の勧めによってオペレッタ(喜歌劇)作曲家への転身を図った。デビュー作の《インディゴと40人の盗賊》をはじめ、彼のオペレッタは良い台本に恵まれず(一説には、台本選びのセンスが悪かったとも言われている)、当時の人気はともかく現在では演奏されない作品がほとんどだが、そうした中で《こうもり》《ジプシー男爵》の2作はオペレッタというジャンルの代表作に位置付けられている。
 1872年にはアメリカのボストン世界平和記念祭に招聘され、1894年には音楽家生活50周年を祝うべく、さまざまな行事が開催された。1899年に肺炎でこの世を去るまで、ウィーンを代表する音楽家として走り続けた人生であった。
 ヨハン・シュトラウスⅡ世といえば、同時代に活躍した音楽家たちからの評価がとても高かったことに触れておく必要があるだろう。ブラームスは彼の音楽を「ウィーンの血であり、ベートーヴェン、シューベルトの流れをくむ主流」と絶賛した。ワーグナーも「ヨーロッパ音楽の最高峰のひとつ」と褒め称えた。ブルックナーは「ブラームスのすべての交響曲よりも、彼の1曲のワルツのほうが好きだ」とまで語った。若きグスタフ・マーラーはウィーン宮廷歌劇場の総監督として最晩年の彼にバレエ音楽を委嘱し(未完)、リヒャルト・シュトラウス(同姓だが血縁無し)も彼を激賞した。
 ここで挙げた作曲家たちの中には、ブラームスとワーグナー、ブラームスとブルックナーのように、当時音楽界を二分するほど対立していた作曲家もいた。激しく反目しあう作曲家たちも「ヨハン・シュトラウスⅡ世のファン」という点では共通していたのである。

ヨハン・シュトラウスⅡ世の作品

ワルツ《美しく青きドナウ》

 1867年に初演されたこの作品は、前年にプロイセンやイタリアとの戦いに敗れ、人々が悲嘆にくれる中でもウィーン郊外の自然は変わらず美しいことを詠った、カール・イシドール・ベックの詩の最後の一行「美しく青きドナウのほとり」をその表題に冠している。もともとはオーケストラ伴奏の男声合唱曲として発表されたが、1867年2月の初演は成功とはいえず、この曲の爆発的な成功は、同年7月に行われたパリ万国博での作曲者自身の演奏まで待たねばならなかった。
 冒頭、ドナウ川のせせらぎを表すかのような弦楽器のトレモロは、その後多くの作曲家が追随したことからも、トレモロによる音楽表現の初期の成功例に数えられている。
 序奏を経て繰り広げられる、第1ワルツから第5ワルツまでの音楽は、どの部分をとっても思わずステップを踏みたくなる華麗さと軽やかさ。巧みな転調と充実したオーケストレーション、そしてワルツでありながら時折リズム感を希薄にさせる、リズムの濃淡によって、単なるダンス音楽ではなく「鑑賞」に耐えうる芸術性を獲得していることこそが、ヨハン・シュトラウスⅡ世のワルツの特徴である。

ワルツ《酒・女・歌》

 1869年2月に発表されたこの作品は、《美しく青きドナウ》と同じく、もともとは男声合唱とオーケストラのための作品である。現在ではオーケストラのみで演奏されることが多い。
 この作品の演奏時間は10分ほどであるが、なんと前半の4分半が「序奏」である。8分の6拍子で、穏やかな美しい旋律がオーケストラのあちらこちらから少し顔を出す。断片的な旋律は「もうちょっと聴いていたい」という聴き手の願望を見透かしたかのように、ひとつとして完結することなく消えてゆき、次の旋律がとって代わる。
 やがて音楽はマーチへと転じ、オーケストラ全体が紅潮してゆく。堂々たるクライマックスを築くと、ようやくワルツが始まる。旋律もハーモニーも、まさにヨハンⅡ世らしさ全開だ。
 この作品をこよなく愛したふたりの作曲家がいた。ブラームスとワーグナーである。お互いにとても仲が悪かったとされているブラームスとワーグナーは、ともにヨハンⅡ世の親友であった。ブラームスはこの作品の旋律を用いてピアノ曲を書くことを試み、ワーグナーは63歳の誕生日パーティーで自ら指揮し、招待客を驚かせたと言われている。
 なお余談ではあるが、ブラームスとワーグナーの関係については、1863年にブラームスが知人の指揮者の要望でワーグナーの作品のパート譜作成スタッフとして参加したことや、ワーグナーの作品が発表されるたびに会場へ足を運んでいたことなどから、作品に批判的な目線を向けてはいたとしても、当時の音楽ジャーナリズムがあおるほどにはワーグナーとは対立していなかったと考えられている。一方、ワーグナーにとって、ブラームスは眼中になかった。

ワルツ《皇帝円舞曲》

 ヨハン・シュトラウスⅡ世の作品は、その多くが誰かに献呈されている。ではこの《皇帝円舞曲》はどうか……といえば、タイトルに反して誰にも献呈されていない。1889年秋、ベルリンでドイツ皇帝ヴィルヘルムⅡ世の主催による宮殿改築披露演奏会において作曲者自身の指揮で初演されたが、ヴィルヘルムⅡ世に献呈されたわけではない。一説によれば、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフⅠ世に献呈すべく書かれたが、ルドルフ皇太子の急死による服喪期間中のため機を逸した、とも言われている。
 ワルツでありながら、遠くから近づき、そしてまた遠ざかっていくマーチで幕を開ける。第1ワルツから第4ワルツまで、転調を重ねながら華麗なワルツが展開されるが、第1ワルツについては、主賓のカップルが節度を保って踊ることを反映して、あえてゆっくりと演奏されることが通例である。ゆるやかなテンポが、第1ワルツの高貴さを増している。

喜歌劇《こうもり》

 オペレッタ(喜歌劇)というジャンルの基本的な形は、わが国では運動会などでおなじみの「あの曲」を含むことで知られる、オッフェンバックの《天国と地獄》によって一応完成されたと言われている。
 50歳を過ぎたヨハン・シュトラウスⅡ世がオペレッタの世界に進出したきっかけも、ウィーンを訪れたオッフェンバックの勧めであった。16作あるヨハン・シュトラウスⅡ世のオペレッタの中で、ウィーン国立歌劇場をはじめ、世界の名だたる歌劇場で演奏されている《こうもり》と《ジプシー男爵》は、オペラに匹敵する高い芸術性を持っている(実は、オペラとオペレッタはヨーロッパにおいてはっきりと区別されており、歌劇場でオペレッタが上演される機会は少ない)。
 オーストリアの温泉地、バート・イシュルとそこで開催される仮面舞踏会を舞台に、恋のさや当てと勘違いと化かしあいとが交錯する《こうもり》は、序曲の冒頭から聴き手を「あのころ」のオーストリアへといざなう。第1幕でアルフレードが歌う〈酒の歌〉や、第2幕を締めくくるワルツ、第3幕の三重唱など、一度聴いたら忘れられない名旋律がたっぷり詰まった作品である。

《ピッツィカート・ポルカ》

 ヨハン・シュトラウスⅠ世とⅡ世、親子どうしは音楽家として激しく対立したが、ヨハンⅡ世とその弟ヨーゼフ、エドゥアルトとの関係はきわめて良好であった。兄弟仲の良さを示す作品として、ヨハンⅡ世とヨーゼフの合作による《ピッツィカート・ポルカ》を挙げておきたい。短く、愛らしいポルカを合作するにあたり、どのような作業分担が行われたのかは明らかになっていない。曲の前半と後半を分担したのか、旋律と伴奏を分担したのか、はたまた作曲はヨーゼフ、ピッツィカートのアイデアはヨハンⅡ世が出したものだったのか、いろいろと想像をめぐらせるのもひとつの楽しみ方であろう。
ヨーゼフ・シュトラウスの生涯を追う「後編」へ続く。

<文・加藤新平>

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