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Program library Vol.4 シュトラウス家の音楽 ~ヨーゼフ・シュトラウス~

Program library Vol.4 シュトラウス家の音楽 ~ヨーゼフ・シュトラウス~
ウィーン・フィルのニューイヤー・コンサートが行われる、ウィーン楽友協会
 コンサートをより楽しむには、その演奏される曲を理解しておくことが大切。作品が世に出るまでのエピソードや人気の背景を知れば、コンサートがさらに楽しくなることでしょう。そこでスタートした、コンサート・プログラムを簡単に予習する特集企画「Program library」。  Vol.4は「シュトラウス家」。クラシック音楽的には新年の風物詩でもある「シュトラウス」ですが、ベートーヴェンやブラームスのようにひとりの「シュトラウスさん」として著名なわけではなく、バッハ一族のようにファミリーで名を遺した一家です。ニューイヤー・コンサートの前にぜひ、シュトラウス家についての知識を深めてみてはいかが?
ヨハン・シュトラウスⅡ世の生涯を追う「中編」からの続き

ヨーゼフ・シュトラウスの生涯

 ヨハン・シュトラウスⅠ世の次男、ヨハン・シュトラウスⅡ世の弟として、1827年にヨーゼフ・シュトラウスは生まれた。
 「ワルツの父」の息子で「ワルツ王」の弟……と来れば、音楽家になるべくして生まれたと言っても過言ではなさそうだが、兄であるヨハンⅡ世が子どものころから父親の反対を押し切って音楽家になることを夢見たのに対して、ヨーゼフは音楽家になるつもりはなかった。
 工芸学校を卒業した彼はウィーン市の土木事務所などで工業技師として働いていた。まったく音楽と縁のない仕事をしていた彼が、音楽家としてデビューするきっかけとなったのは、1853年に兄が過労で倒れたことであった。
 同年7月23日、兄に代わってシュトラウス楽団の指揮者として出演したことをきっかけに音楽家へ転向することとなり、以後亡くなるまでの17年間、作曲家、指揮者、演奏家として活躍したが、工業技師から音楽家へといともたやすく転身できた理由は、やはり兄とともに幼少期にひそかに楽器に触れていたことにあったのだろう。
 父や兄がもっぱら自作曲を中心とする娯楽音楽の演奏を中心としていたのに対して、指揮者としてのヨーゼフの活動は、ワーグナーやリストなど同時代の作曲家の「お堅い作品」を大衆的な演奏会で演奏し、普及に努めていた点で一線を画している。

ヨーゼフ・シュトラウスの作品

ワルツ《オーストリアの村つばめ》

 1862年から63年にかけて発表された、アウグスト・ジルバーシュタインの小説『オーストリアの村つばめ』は、アルプスに暮らす素朴な若者の恋物語が大ヒットした。
 この小説に着想を得て作曲され、1864年に発表されたのが、ワルツ《オーストリアの村つばめ》である。
 当時ウィーンでは忘れられかけていた、「レントラー」と呼ばれる、田舎の快活な舞曲と、冒頭で鳴り響く低音、そして随所に聴こえるホルン、さらには「バードコール」とも呼ばれる鳥笛によって、美しいアルプスの風景を聴く者に思い起こさせる。小説に負けず劣らず大ヒットしたこともうなずけるこの作品は、小説の作者ジルバーシュタインに献呈された。

ワルツ《天体の音楽》

 地味で社交性もいまひとつ、繊細な感性と緻密な頭脳をもつ「根暗」タイプの性格だったと伝えられるヨーゼフの作品は、作者のパーソナリティとは真逆と言うべきか、いずれも底抜けに明るい。不思議なタイトルをもつこの作品もそのひとつである。
 紀元前6世紀にピタゴラスが唱えた「天球は完全なハーモニーとリズムをもってめぐっている」という説は、天動説に基づく「過去のもの」であったが、19世紀中ごろのロマン主義の時代においては、多くの真理を含むものとして見直され、支持を集めていた。
 シュトラウス楽団が毎年出演する「医学生舞踏会」の、1868年のテーマがこの「天体の音楽」であり、ヨーゼフが作曲を担当することとなった。直接的かつ即物的な表現を好む兄と異なり、ヨーゼフの作風はあくまでロマンティックなもので、実は作曲家としての人気はヨーゼフの方が高かった。
 こうした期待に応えて書かれた《天体の音楽》は、ほの暗い序奏を経てトランペットが鳴り渡ると、美しい星々がめぐってゆくかのように、優美なワルツが次々と紡がれていく。

《鍛冶屋のポルカ》

 17年間の音楽家としての活動において、ヨーゼフは少なくとも283曲を作曲した。その内訳はワルツ80曲、ポルカ100曲、ポルカ・マズルカ44曲、カドリーユ36曲、行進曲19曲、レントラーなど4曲、そして作品番号の無い作品が50曲以上である。
 「ワルツの父」の子、「ワルツ王」の弟ならばやはりワルツが得意……という点では、ヨーゼフはまさしくワルツの作曲家であった。しかし作品の内訳をみると、当時ウィーンで大流行していたもうひとつの舞曲、2拍子のポルカがワルツよりはるかに多い。ワルツをしのぐ数のポルカを書いたものの、ヨーゼフは実はもともと3拍子のワルツの方が得意であった。そんな彼にポルカの作曲家として自信を与えるきっかけとなったのが、この作品である。
 金庫メーカーのヴェルトハイム商会が、1869年に金庫の製造数2万個突破を記念して開催した花火大会のために書かれたこの作品では、「花火大会」と「鍛冶屋」がどちらもドイツ語では“Feuerfest”と呼ばれることに着想を得て、金床を楽器として使用している。軽快で陽気なポルカと、甲高く響き渡る金床の音とが組み合わせられて、独特の祝祭的な雰囲気を作り出している。

その後のシュトラウス家

 1835年に生まれた、ヨーゼフの弟であるエドゥアルト・シュトラウスⅠ世は、ポルカの中でもとりわけテンポが速い「ポルカ・シュネル」を得意とする作曲家兼指揮者として活動した。ただし、もともと音楽家になることを夢見ていたヨハンⅡ世や、幼少期から楽器に触れており、工業技師から華麗なる転身を果たしたヨーゼフと違って、彼の場合は兄であるヨハンⅡ世に無理やり音楽家の道へと引きずり込まれ、シュトラウス楽団のハープ奏者としてデビューした……という経緯があった。彼のキャリアの頂点は、1872年にヨハンⅡ世の後を継いで宮廷舞踏会音楽監督に就任したことであろう。
 エドゥアルトⅠ世の息子、ヨハン・シュトラウスⅢ世は1866年に生まれた。彼は現時点において、シュトラウス家最後の作曲家である。音楽家の道に進むことを父に反対されたという点では、同じ名を持つ伯父ヨハンⅡ世と同じであったし、当初はまったく違う分野において仕事をしたという点では、伯父ヨーゼフと同じであった。楽器の手ほどきこそ受けたものの、社会に出て最初の仕事は、オーストリア帝国文部省の会計士であった。
 1898年に喜歌劇《猫と鼠》を発表して作曲家デビューを果たし、1899年には専業音楽家となって、以後ヨーロッパ各地を精力的に回って活躍した。1902年、《戴冠式のワルツ》を最後に作曲から引退して指揮活動に専念し、1907年にはドイツのベルリンに転居した。指揮者として数多くの録音を残したほか、演奏旅行も精力的に行った。

ウィーン・フィルのニューイヤー・コンサート

 1938年、ナチス・ドイツがオーストリアを併合し、翌1939年にはヨハン・シュトラウスⅢ世がこの世を去った。この年の大みそかに、ナチスに対するオーストリア人の不満を抑える目的で開催されたコンサートが、ウィーン・フィルのニューイヤー・コンサート(以下「ニューイヤー・コンサート」と表記)の始まりであった。お正月の正午開演に変更されたのは、第2回となる1941年からである。
 1938年の開始から1986年までの約50年間、ニューイヤー・コンサートのタクトを執った指揮者はわずか4人であった。第1回を指揮したクレメンス・クラウスが戦中・戦後にまたがり14回、ヨーゼフ・クリップスが2回、ウィリー・ボスコフスキーが25回、ロリン・マゼールが7回というのがその内訳である。ウィーン・フィルのコンサートマスターを務めたボスコフスキーが、ヴァイオリンを片手に指揮をする姿は特に印象的で、彼が指揮者を務めていたころの1959年からテレビ中継が始まったこともあり、次第にニューイヤー・コンサートの国際的な知名度が高まってきた。
 ニューイヤー・コンサートにおいて、ヨハン・シュトラウスⅡ世を中心とするシュトラウス家の作品が取上げられるようになったのも、1955年にボスコフスキーがこの公演の指揮を担当し始めてからであった(ただし、ヨハン・シュトラウスⅢ世の作品はいまだにニューイヤー・コンサートで取り上げられていない)。
 1987年以降は、ヘルベルト・フォン・カラヤン、クラウディオ・アバド、カルロス・クライバーといったビッグネームが次々と登場し、1990年にはアジア系指揮者として初めてズービン・メータが出演した。その後はリッカルド・ムーティ、ニコラウス・アーノンクール、小澤征爾、マリス・ヤンソンス、ジョルジュ・プレートル、ダニエル・バレンボイム、フランツ・ヴェルザー=メスト、グスターボ・ドゥダメル、クリスティアン・ティーレマン、アンドリス・ネルソンスがニューイヤー・コンサートに初出演を果たしてきた。2024年はクリスティアン・ティーレマンが再登板予定である。
 ニューイヤー・コンサートのプログラムは、シュトラウス家とウィーンゆかりの作曲家の作品を中心に構成され、よく知られた名曲だけでなく、なじみのない作品も一定数取り入れて、こうした作品の再評価につなげてゆく取り組みがなされている。また、メモリアル・イヤーの作曲家の作品を盛り込む回数が増えてきており、モーツァルト生誕250年となる2006年にはモーツァルトの歌劇《フィガロの結婚》より〈序曲〉が、ハイドン没後200年となる2009年には交響曲第45番《告別》の第4楽章が演奏された。ハイドンの作品がニューイヤー・コンサートで演奏されるのは、これが初めてのことであった。
 ニューイヤー・コンサートといえばこの曲! というイメージが強い《美しく青きドナウ》や《ラデツキー行進曲》は、実は聴衆が盛り上がり過ぎてしまい、演奏開始直後に沸き起こる拍手によってしばしばコンサートが中断を余儀なくされる事態が多発したことなどを受けて、第二次世界大戦後はアンコールの1曲目・2曲目としてほぼ固定され、メインのプログラムから外れている。このほか、演奏者だけでなく指揮者も巻き込んだ、捧腹絶倒の演出もニューイヤー・コンサートの特徴である。その面白さはネタバレ厳禁かつ一期一会。ぜひ、生中継でお楽しみあれ!

<文・加藤新平>

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