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Program library Vol.3 ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(交響曲編)

~コンサートプログラムを簡単に予習~
Program library Vol.3 ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(交響曲編)
コンサートをより楽しむには、その演奏される曲を理解しておくことが大切である。作品が世に出るまでのエピソードや人気の背景を知れば、コンサートがさらに楽しくなるだろう。そこで始まるのが、コンサートプログラムを簡単に予習する特集企画「Program library」。  Vol.3は、音楽史において極めて重要な作曲家のひとりであり、日本では「楽聖」とも呼ばれるベートーヴェン。「交響曲編」「ピアノ・ソナタ、ピアノ協奏曲編」「室内楽曲、管弦楽曲、声楽曲編」に分けて、その生涯や、コンサートのプログラムに選ばれることの多い作品を簡単にご紹介しよう
日本では「楽聖」と称えられ、すでに語りつくされて来た感もあるベートーヴェン。「ららら♪クラブ」読者の皆さまの中には「さすがにもう聴きつくしたよ……」という方もいらっしゃることだろう。だが、少し見方を変えれば、まだまだおもしろさと味わい深さが出てくる。それがベートーヴェンの「楽聖」たるゆえんだ。
 ここからはまず、彼の生涯を駆け足でご紹介したい。まるで《交響曲第7番》の第4楽章のように……。

超概略・ベートーヴェンの生涯

1770年12月、ベートーヴェンはドイツのボン(東西ドイツ分断時代は「西ドイツ」の首都でもあった)に生まれた。同地の「選帝侯」(注釈①)の宮廷のテノール歌手である父ヨハンと母ライムの子として生まれた彼にとって、最初の音楽の師匠はほかでもない父親だった。
 当時の「神童」ブームにあやかろうとした父親は、ルートヴィヒ少年が8歳のときに「6歳」と年齢を偽って演奏会デビューさせた。このころから、ボンの宮廷のオルガン奏者ネーフェよりオルガンの手ほどきを受け、J.S.バッハやC.P.E.バッハの作品を学び、あわせて作曲も学んだ。
 ルートヴィヒ少年の演奏家としての評判は、モーツァルトのように「ヨーロッパ全土にとどろく」ものではなかったし、そもそもデビューの年齢が8歳と、モーツァルトより2年遅い。「楽聖」のイメージに反して、その音楽活動の出だしは順風満帆とはいかなかった。1784年にはボンの宮廷オルガン奏者の助手に任命されたが、給料はなんと「無給」で、職業音楽家としての独り立ちには至らず、1787年には初めてウィーンを訪問してモーツァルトに対面したと言われているが、残念ながらモーツァルトの弟子になることはできなかった。

注釈①:神聖ローマ帝国の君主に対する選挙権を有した諸侯のこと。

 1789年、ベートーヴェンはボン大学の聴講生となり、哲学、文学、芸術史を学んだ。読書会にも積極的に参加したほか、医学などの講義にも顔を出した。同時期に劇場でアルバイトを始め、オーケストラのヴィオラ奏者を務めた。
 1792年、ウィーンへの帰途ボンに立ち寄ったハイドンのもとを訪ねて、声楽曲などを見せた。これが彼にとっての転機となり、ウィーンでハイドンの門下生となることを認められた。
 このころのベートーヴェンの作品は《選帝侯ソナタ》をはじめ、まだモーツァルトなどの影響が濃く、《皇帝ヨーゼフ2世の死を悼むカンタータ》や《皇帝レオポルト2世の国威を祝うカンタータ》をのぞいては、小規模な作品ばかりを手がけていた。

 ベートーヴェンの生涯を紐解くと、浮かび上がるのは「支援者」の存在である。ベートーヴェンのウィーン行きを後押ししてくれたのが、ヴァルトシュタイン伯爵であった。彼はウィーンへ発つベートーヴェンに「不断の努力によって、ハイドンの手からモーツァルトの精神を受け取りたまえ」との言葉を贈った。
 1792年、ウィーンに到着したベートーヴェンは、ハイドン、シェンク、アルブレヒツベルガーのもとで作曲や対位法を学びながら、ピアニストとしてデビューした。1795年には《ピアノ三重奏曲》Op.1やピアノ・ソナタ第1番 Op.2を出版し、作曲家として本格的にデビューした。ウィーン時代の「前期(1792年~1801年)」のベートーヴェンは、ソナタ、交響曲、弦楽四重奏曲などの「古典派の器楽曲の王道」ともいうべきジャンルを重点的に手がけ、即興演奏に長けた「コンポーザー・ピアニスト」としての名声を確立しつつあった。ピアノ・ソナタ第14番 Op.26では第1楽章に緩徐楽章(注釈②)を置くなど、ハイドンやモーツァルトの影響を脱する努力もこのころの作品から見て取れる。
 しかし、ベートーヴェンを次第に病魔が襲う。難聴という、音楽家としてのキャリアに極めて影響の大きい病にベートーヴェンは苦悩を深め、一時は自ら命を絶つことも考えたが、1802年10月6日に弟であるカールとヨハンに宛てて「ハイリゲンシュタットの遺書」を書き、難聴と向き合いながらなんとかして生きようとする希望を綴った。

注釈②:本来は交響曲やソナタの第2楽章、第3楽章に置かれる、ゆるやかなテンポの楽章。

 ウィーン時代の「中期・前半(1802年~1809年)」に差しかかると、ベートーヴェンの作風はより力強く英雄的な傾向を見せ始める。このころの代表作が、《英雄》のタイトルで知られる交響曲第3番 Op.55とオペラ《フィデリオ》Op.72である。《英雄》の第1楽章における、短いモチーフを徹底的に活用して音楽を構築する書法は、のちの交響曲第5番 Op.67にも影響を与えている。
 このころの作曲家は「オペラでヒット作を生み出してこそ一人前」と見なされており、ベートーヴェンは《フィデリオ》を三度も改稿して「ヒット作」にするべく努力を重ねた。1810年にようやくベートーヴェンの作品の人気が高まる中で、《フィデリオ》もオペラ座のレパートリーとして定着した。

 「中期・後半(1809年~1812年)」に入ると、豊かな旋律を紡いでいく作風へと変化した。代表例はピアノ協奏曲第5番《皇帝》Op.73であろう。一方で、交響曲第7番 Op.92では、のちにリヒャルト・ワーグナーをして「舞踏の聖化」と言わしめる、リズムに特化した作風を展開した。1811年に作曲した《ピアノ三重奏曲第7番》Op.97は、支援者でありベートーヴェンの弟子でもあったルドルフ大公に捧げられていることから「大公」の愛称で知られている。

 「後期(1813年~1827年)」のベートーヴェンの様式は、急激な転調やテンポの変化などによって、激情型の表現がなされている一方で、堅牢な対位法と変奏を好み、思索を深めていることであろう。このころの作品としてはピアノ・ソナタ第29番《ハンマークラヴィーア》Op.106や、交響曲第9番 Op.125などの大規模かつ大ぶりな表現の作品や、《ディアベリ変奏曲》Op.120などの、変奏の技法を極めたものが挙げられる。ベートーヴェンと言えば「耳が聞こえない」というイメージが先行しているが、実は生涯の後半に至るまで、骨伝導を用いてピアノの音を聴きとることは可能であり、9つある交響曲の中で、完全に聴力を失った状態で書かれたのは交響曲第9番のみと言われている。

ベートーヴェンの交響曲紹介

 ベートーヴェンは、ボン時代の1791年から、ハ短調の交響曲のスケッチを試みていた。現存する、「Hess 298」の番号がつけられたスケッチからは、後年のベートーヴェンを想起させる、畳み掛けるようなシンコペーションのリズムが聴きとれる。
 ウィーンに転居したベートーヴェンが、満を持して送り出した作品こそが、交響曲第1番 Op.21である。「ハ長調」と銘打ちながらヘ長調で始まり、その後もなかなかハ長調へ到達しない第1楽章の序奏は、ベートーヴェンの革新性の象徴と言えよう。この作品では第3楽章を「メヌエット」と名付けているが、その音楽の内容は明らかに快速で諧謔性(かいぎゃくせい)に富んだ「スケルツォ」である。
 交響曲第2番 Op.36は、第1楽章の序奏において、のちの「第九」に通じる響きが聴かれるほか、第4楽章の快活さは特筆に値する。フォルテとピアノの強烈な対比など、ベートーヴェンらしさが詰まっており、異例の巨大さをもつ《英雄》と比べて、古典派の交響曲のスタイルを知る上でもわかりやすい作品である。
 交響曲第3番 Op.55、通称《英雄》は、第1楽章の規模の大きさ、第2楽章に葬送行進曲を置いたこと、第3楽章スケルツォのスピード感、そして第4楽章の堅牢な変奏曲……と、交響曲というジャンルの「革新」に満ちている。
 《英雄》と《運命》に挟まれて影が薄い……などと言われがちな交響曲第4番 Op.60は、第1楽章でのミステリアスな序奏とエネルギッシュな主部との対比や、第2楽章でティンパニを「旋律楽器」として使っていること、そしてファゴットが八面六臂の活躍を見せる第4楽章など、ベートーヴェンの才能の豊かさとおもしろさが詰まっている。
 さて、わが国では《運命》の愛称で知られる交響曲第5番 Op.67は、誰もが知る「あのモチーフ」を徹底的に積み重ねていく第1楽章の構築力の秀逸さをまず感じてほしい。第2楽章の抒情性、そして「闘争を経て勝利へ」という構図がのちの交響曲に多大なる影響を与えた、闇が深い第3楽章から輝かしい第4楽章へと向かうストーリー性は、やはりみごと。「通俗名曲」扱いして敬遠する向きもあろうが、いまこそあらためて聴いてほしい作品。
 交響曲第6番《田園》Op.68は、ベートーヴェンが散歩をしながら小鳥の声に耳をかたむけ、インスピレーションを得て作曲した……といったストーリーばかりが取りざたされがちだが、古典派の交響曲としては異例の五楽章形式であることや、交響曲第5番にも引けをとらない徹底的なモチーフの活用に、ぜひ注目して聴いてほしい。
 『のだめカンタービレ』以来「ベト7」の愛称で親しまれ、一気に人気ナンバーワンに躍り出た交響曲第7番 Op.92は、第1楽章の主部、第1主題の快活なリズムや、間断なく繰り返される第2楽章のリズム、全力疾走のスケルツォ、そしてアイルランド民謡《ノラ・クレイナ》の影響が指摘される第4楽章のリズム……と、とにかく「舞踏の聖化」と呼ばれるにふさわしい作品だ。
 「ベト7」と「第九」の間に挟まれている交響曲第8番 Op.93は、遊び心満載の作品だ。従来の古典的な交響曲の形式に戻ったと見せかけて、低音楽器を駆使した第1楽章のオーケストレーション、メトロノームを模したと言われる第2楽章のリズム、ベートーヴェンの交響曲中、唯一の本格的な「メヌエット」、そして独特の転調が印象的な第4楽章と、楽曲全体が新鮮さに満ちている。コアなベートーヴェン・ファンの中には「第九」よりこの曲を推す人も多い。
 わが国では「年末の風物詩」となっているベートーヴェンの「第九」こと、交響曲第9番 Op.125。第4楽章に焦点を当てた解説が多い中、ここではあえて第1楽章から第3楽章に焦点を当てたい。第1楽章は、オーケストラによる「ユニゾン」の効果を最大限に活かしつつ、実は《運命》にも匹敵するモチーフの徹底した活用がなされている。第2楽章はスピード感あふれるスケルツォ。ティンパニが打ち鳴らすモチーフは初演当時大受けし、この楽章が二度もアンコールで演奏された。そして第3楽章は、ベートーヴェンの交響曲の中でも屈指の美しさを誇る緩徐楽章。その繊細な和声とパート同士の絡み合いにぜひ注目してほしい。
 「第九」の演奏史を紐解くと、ベートーヴェンの死後しばらくは、ドイツ語での歌唱の難しさを理由として、特にフランスでは「第1楽章→第3楽章→第2楽章」の順で、三楽章の交響曲として演奏されていた時期もあった。「第九」でベートーヴェンが選んだシラーの詩『歓喜に寄す』は、実はキリスト教の伝統的な価値観から解き放たれている部分も多く、「破天荒」「難解」とされている。そんな第4楽章では、ベートーヴェンは軍楽からルネサンス音楽まで、幅広いジャンルと時代の音楽を取り入れていることも要注目。
 さて、ここまでベートーヴェンの交響曲をご紹介して来たが、あと2曲ほどお付き合いいただきたい。
 まずは「戦争交響曲」の愛称で知られる《ウェリントンの勝利》Op.91。この作品は、ベートーヴェンの全作品中最大のオーケストラ編成を誇り、マスケット銃や大砲を編成に含めていること、合奏を事実上「二群」に分け、音の遠近感も採り入れていることなど、実験的な要素が強い作品である。
 そして最後にご紹介するのは、交響曲第10番。イギリスの音楽学者、バリー・クーパーが断片的なスケッチをつなぎ合わせて第1楽章を再構成したバージョンから、日本の作曲家、七田英明による四楽章形式の完成版など、さまざまな試みがなされている。ベートーヴェンの「最後の交響曲」の姿を探ってみるのも、また一興だろう(もっとも、その内容の充実ぶりや完成度からみて、やはりブラームスの交響曲第1番こそが「ベートーヴェンの交響曲第10番」と呼ぶにふさわしいかもしれない)。

 ベートーヴェンの「ピアノ・ソナタ、ピアノ協奏曲編」へ続く。

<文・加藤新平>

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