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Program library Vol.5 ジャコモ・プッチーニの世界(後編)

Program library Vol.5 ジャコモ・プッチーニの世界(後編)
プッチーニの故郷、ルッカはイタリアのトスカーナ地方にある。中央奥に見えるのはサン マルティーノ大聖堂
 コンサートをより楽しむには、その演奏される曲を理解しておくことが大切。作品が世に出るまでのエピソードや人気の背景を知れば、コンサートがさらに楽しくなることでしょう。そこでスタートした、コンサート・プログラムを簡単に予習する特集企画「Program library」。  Vol.5は2024年で没後100年を迎える、ジャコモ・プッチーニ。数々のオペラの名作を創り出し、《蝶々夫人》から〈ある晴れた日に〉や《トゥーランドット》の〈誰も寝てはならぬ〉など、文字どおり“誰もが知っている”と言える作品を数多く残しています。  後半では、その創作活動の中心であったオペラの名作たちに迫ります。
前編」からの続き
 2024年に没後100周年を迎えるプッチーニ。前編では彼の生涯と、管弦楽曲や宗教音楽、歌曲、室内楽曲についてご紹介した。
 ここからは、彼の創作活動の中心ともいうべきオペラ作品を紐解いていこう。

プッチーニの作品解説(オペラ)

《マノン・レスコー》(1893年初演)

 前編でもご紹介したとおり、本作はオペラ作曲家プッチーニにとって初の成功作となった。1884年にパリで初演以来、好評を博しているマスネの《マノン》と同じ題材ということもあって、プッチーニの意気込みはかなりのものであった。原作であるアベ・プレヴォの小説では「移り気で意地悪」という性格に描かれているマノンは、その美貌で男を翻弄しつつも、どこか弱さを感じさせる人物として新たにキャラクター設定が行われている。また、マノンを妾として囲い込む財務官ジェロントは、プレヴォの原作には登場しない。
 プッチーニは台本にも相当のこだわりを見せており、マスネの《マノン》と重複するシーンは極力避けられている。ただし、台本へのこだわりが強すぎたがために、最初の台本執筆者レオンカヴァッロ(のちにオペラ《道化師》の作曲家として有名になる)をはじめ、6人もの人物が台本に関与することとなった。
 第1幕はアミアンの旗亭の前の広場を舞台とし、学生の格好をした騎士デ・グリューが、修道院に向かうマノンを目撃しひと目惚れする。名前をたずねるデ・グリューに対し「私の名は、マノン・レスコー」とマノンが答えるときに歌われる旋律は「マノンの動機」として、ワーグナーの作品における「ライトモティーフ」(※注釈)のような効果を発揮する。聴きどころは中盤に歌われるデ・グリューのアリア〈見たこともない素晴らしい美人〉。好色漢のジェロントもマノンに色目を使う中、修道院へ行かずに駆け落ちすることをデ・グリューとマノンは決意し、手を取り合って逃げていく。

※注釈:その作品中の特定の人物、場面、想念などを、旋律や楽器によって表わしたもの。例えば、Aという登場人物を表すモティーフ(旋律など)が演奏されると、その場面にはAが登場したり、Aが関わる物語の展開がある。映画「スター・ウォーズ」シリーズで有名な《帝国のマーチ(ダース・ベイダーのテーマ)》や、アニメ「アンパンマン」での《いくぞ!ばいきんまん》も、広義にはライトモティーフのひとつである。

 第2幕は、一転してパリのジェロントの邸宅。マノンはデ・グリューとの仲を引き裂かれ、ジェロントの妾となっている。デ・グリューとの駆け落ち生活を懐かしんでマノンが歌う〈このやわらかなレースの中で〉や、ジェロントの邸宅に現れたデ・グリューとマノンの二重唱〈あなた、いとしい方〉など、プッチーニの感情表現のテクニックが遺憾なく発揮されている。
 第3幕に先立って演奏される間奏曲は、今後のふたりの運命を暗示する。幕が開くとそこは早朝のル・アーヴルの波止場。マノンは他の女囚とともにアメリカへ送られることになっている。獄舎の鉄格子を挟んで語り合うデ・グリューとマノン。マノン救出をあきらめたデ・グリューは、女囚を統率する隊長の足元にひれ伏し、涙ながらに〈ご覧ください、狂った僕を〉と歌う。彼の愛に心打たれた隊長は、デ・グリューの乗船を許可する。
 フランス管轄下のアメリカ植民地へ渡ったデ・グリューとマノンであったが、ここで問題を起こしてしまい、人目をさけてニューオーリンズ近郊の荒野をさまよっている。衰弱し切ったマノンと憔悴するデ・グリュー。〈見てごらん、泣いているのは私だ〉と歌いかけた彼は、マノンが高熱を出していることに気づき、彼女のために水を探しに行く。ひとり荒野に残された恐怖と寂しさに押しつぶされ、マノンは〈ひとり寂しく〉と歌う。水を確保できず戻って来るデ・グリュー。最後の望みの尽き果てる中、彼はマノンを固く抱きしめ、最後の二重唱へと入ってゆく。

《ラ・ボエーム》(1896年初演)

 プッチーニの代表作のひとつに数えられる本作は、フランスの作家アンリ・ミュルジェの小説『ボヘミアンの生活情景』を下敷きに、プッチーニ自身の、マスカーニとともに暮らした貧しい下宿生活の体験を踏まえつつ書かれた作品である。特に一貫した筋書きのないミュルジェの作品から23編を選び出し、ジュゼッペ・ジャコーザとルイージ・イッリカという優れたふたりの台本作家の協力を得て、詩人のロドルフォ、画家のマルチェッロ、哲学者コッリーネ、音楽家のショナール、そしてロドルフォの恋人ミミ、マルチェッロの恋人ムゼッタという6人による群像劇と、ふたつの恋を描いた、美しくも悲しい作品として仕上げられた。
 第1幕で、ろうそくの火を借りに来たミミの手をとって、暗闇の中でロドルフォが歌うアリア〈冷たい手を〉、「きみの身の上話をきかせて」というロドルフォの求めに応じてミミが歌うアリア〈私の名はミミ〉、第2幕で、ムゼッタが恋人マルチェッロが自分と別れたことを後悔するように、自分の魅力について歌う〈ムゼッタのワルツ〉、第3幕でロドルフォにミミが別れを告げる〈ミミの別れ〉やそれに続く四重唱、第4幕でロドルフォとマルチェッロがかつての恋人を懐かしむ二重唱、そしてミミの人生最後の歌〈みんないってしまったの〉まで、聴きどころが山ほどある作品だ。
 本稿では、《ラ・ボエーム》の構造に注目したい。第1幕と第4幕の舞台はともに屋根裏部屋であること、そしてどちらの幕も華やかな前半としっとりした後半の対比があること、さらに賑やかな第2幕、ゆるやかで甘美な第3幕がそれぞれはっきりした性格を持っていることから、《ラ・ボエーム》は、オペラでありながら交響曲の構成手法が採り入れられていると指摘されている。すなわち、対比を打ち出している第1楽章、第2楽章はにぎやかなスケルツォ、第3楽章は甘美なアダージョ、そして再び対比を重視した第4楽章、という構造である。
 生涯において交響曲を1曲も書かなかったプッチーニであったが、その様式を《ラ・ボエーム》に採り入れていたのである。

《トスカ》(1900年初演)

 フランスの劇作家ヴィクトリアン・サルドゥが、名女優サラ・ベルナールのために書き下ろした悲劇『トスカ』を1890年にミラノで観たプッチーニは、すぐにオペラ化を決意した。これは《ラ・ボエーム》作曲中のことであり、《ラ・ボエーム》完成後に台本作家ジャコーザとイッリカの協力を得て台本を完成させた。
 1900年1月にローマで行われた初演は、プッチーニのアンチの妨害がひどく成功とは言えなかったが、同年3月にミラノのスカラ座で上演されたのを皮切りに世界各地で上演され、時間はかかったものの成功作となった。
 それまでのオペラにつきものだった序曲や前奏曲を廃し、たった3小節の序奏で一気に暗い情念の渦巻く世界へと観客を引きずり込む。第1幕の前半、画家のカヴァラドッシが恋人のトスカを想って歌う〈妙なる調和〉は、本作の最初の聴きどころだ。やがてトスカが現れ、カヴァラドッシを郊外の別荘へ誘って歌うアリアも名曲。
 カヴァラドッシの友人でもある脱獄した政治犯アンジェロッティを追っている、警視総監のスカルピアは、カヴァラドッシが浮気をしているという嘘をトスカに吹き込み、彼女の嫉妬心に火をつける。第1幕の終盤、礼拝で〈テ・デウム〉(天主よ、われら御身を讃え)が合唱で歌われる中、スカルピアが〈我が望みはふたつの的に〉とつぶやき続け、やがて〈テ・デウム〉とスカルピアの歌声が融合する場面は、「教会音楽家の家系に生まれたオペラ作曲家」であるプッチーニの手腕が遺憾なく発揮されている。
 第2幕の舞台は宮殿内のスカルピアの部屋。アンジェロッティは取り逃がしたものの、カヴァラドッシを捕らえたスカルピアは、カヴァラドッシを拷問にかける。彼のうめき声をトスカに聴かせながら、アンジェロッティの居所をトスカに問いただす。トスカはついに居所を明かしてしまい、カヴァラドッシは刑場に引き立てられていく。トスカにカヴァラドッシを救う方法を持ちかけながら、自身の恋情をぶつけるスカルピアのアリア、カヴァラドッシの処刑を覚悟してトスカが歌う〈歌に生き、恋に生き〉、そして第3幕の冒頭、処刑を待つカヴァラドッシが手紙を書きながら歌う〈星は光りぬ〉はまさに名曲。
 本作は、人間の欲望と感情とを生々しく描き出す、「ヴェリズモ」(情実主義)という潮流に乗って書かれた傑作であり、プッチーニにとっては新たな挑戦であった。

《蝶々夫人》(1904年初演)

 日本を舞台にしたジョン・ルーサー・ロング(ちなみに彼自身は日本への渡航経験がない)の小説『蝶々夫人』を、ダヴィッド・ベラスコが戯曲化した作品が、1900年にニューヨークで初演され大ヒットしていた。プッチーニはこれをロンドンで観劇し、すぐにオペラ化を決意した。とりわけ、「幸が薄くて純情」という主人公の蝶々さんのキャラクターが、プッチーニ好みであったと言われている。
 この作品を書く上で、プッチーニは長唄『越後獅子』をはじめとする日本の俗謡や五音音階を取り入れながら、彼なりに異国情緒のある音楽を書いた。イタリア駐在の日本の特命全権公使の妻に取材し、日本音楽の楽譜を集め、レコードを聴き、日本の風俗習慣や宗教についても理解を深めた。これほどまでに日本音楽へのこだわりをみせながらも、プッチーニは自分好みのキャラクターである蝶々さんについては、日本らしさを表現することよりも愛着が上回った。蝶々さんが自身の思いを歌う場面では、日本音楽を取り入れた旋律ではなく、プッチーニならではの旋律が書かれている。
 第1幕の序盤で蝶々さんが歌う〈海にも陸にも春風が〉や、その恋人でアメリカ軍士官ピンカートンとの二重唱〈夕暮れは迫り〉、第2幕の冒頭で蝶々さんが歌う〈ある晴れた日に〉をはじめ、名曲が歌われる場面に必ず蝶々さんの姿がある。
 1904年の初演は、音楽の斬新さがなかなか観客に理解されず成功には程遠かったが、3カ月かけて徹底的な改訂を施したことにより、世界中で愛される作品となった。

《ジャンニ・スキッキ》(1918年初演)

 プッチーニは、ダンテの『神曲』の「地獄編」「煉獄編」「天国編」から着想を得て、人間の生と苦悩と死を扱った「三部作」の構想をもった。「地獄編」にあたる《外套》、「煉獄編」にあたる《修道女アンジェリカ》、そして「天国編」にあたる《ジャンニ・スキッキ》を合わせて「三部作」と呼んでいる。
 ブオーゾ・ドナーティという資産家の老人の死をきっかけに始まった、遺産をめぐる争いを描いたドタバタ劇と、青年リヌッチオとジャンニ・スキッキの娘ラウレッタとの恋が同時進行する。ソプラノ歌手の多くがレパートリーに持つアリア〈わたしのお父さん〉は、ブオーゾの遺言状によってあやうく遺産が全額修道院に寄付されそうになり、巻き添えを食ってリヌッチオとの結婚も消し飛びそうな中、遺言状の書きかえを拒むスキッキを説得するべく、ラウレッタが歌う名曲である。
 娘の説得が功を奏し、スキッキは一計を案じて、ブオーゾが瀕死の状態でまだ生きているという設定で、自らがブオーゾになりすますという大芝居を公証人の前で演じ、新たな遺言状を捏造する。ここでスキッキが親戚一同に「遺言状の偽造は重罪である」と語るアリア〈さらばフィレンツェ〉は、作品の後半で何度も「警告の動機」として歌われる。

《トゥーランドット》(1926年初演)

 カルロ・ゴッツィの戯曲『トゥーランドット』は、1762年にヴェネツィアで初演された作品で、喜劇性が強い作品である。プッチーニが『トゥーランドット』を知った経緯については、ゴッツィの作品を原作とするシラーの戯曲を観たことがきっかけという説や、フェルッチョ・ブゾーニのオペラ《トゥーランドット》に刺激を受けたという説など、諸説入り乱れている。
 プッチーニは、この作品をオペラ化するにあたり、自我の強い皇女トゥーランドットと、自らを犠牲にして愛する男を救う女奴隷リューという登場人物を作り上げた。純情で可憐で、献身的な愛を捧げるリューはまさにプッチーニ好みのキャラクターである。トゥーランドットも、原作以上に冷徹で残忍な人物として描かれている。
 旋律、リズム、和声、さらには音色にいたるまで、中国の旋律と和声がふんだんに採り入れられているほか、楽器と登場人物とをある程度リンクさせる試みもなされている。カラフは弦楽器、トゥーランドットには木管楽器と弦楽器の組み合わせ、リューには木管楽器や弦楽器のソロ、そして3人の高官ピン・ポン・パンにはピッコロやチェレスタ、宮廷には金管楽器が割り当てられている。
 物語の冒頭、女奴隷リューに手を引かれてタタールの王ティムールが北京へやってくる。そして、ティムールが戦いに敗れた際に生き別れた王子カラフと劇的な再会を果たす。
 しかし、カラフは「3つの謎を解いた者の花嫁になる。しかし謎が解けないときは命がない」と宣言している皇女トゥーランドットに恋をしてしまう。カラフに思いを寄せるリューが歌うアリア〈お聞きください、王子さま〉は、五音音階とプッチーニの旋律美とが融合した傑作である。
 第2幕では、いよいよカラフがトゥーランドットの出す3つの謎に挑む。オペラとしては珍しく、序盤では無伴奏でのやりとりがみられる。トゥーランドットのアリア〈この御殿の中で〉は難曲として知られている。
 誰もが一度は聴いたことがあるであろう名曲〈誰も寝てはならぬ〉は、第3幕の冒頭、勝利を確信したカラフが歌うアリアである。リューが自刃の直前に歌うアリア〈氷のような姫君の心も〉は、名曲ぞろいの本作のなかでも頂点に位置付けられている。プッチーニの筆は、このリューの死の場面で途切れ、本作は未完に終わっている。
 《トゥーランドット》を初演するにあたり、補筆完成が行われた。現在までもっとも演奏されている版はフランコ・アルファーノによるものであるが、1926年にミラノのスカラ座で行われた初演では、トスカニーニはリューの死の場面でタクトを置き、2日目以降もアルファーノの作曲した部分を大幅にカットした。長らくこの「トスカニーニ版」が演奏され、アルファーノが補筆した部分をすべて含む上演は1982年まで待たねばならなかった(一説によれば、トスカニーニがアルファーノの補筆を軽んじた背景には、自らが推薦した作曲家、リッカルド・ザンドナーイが補筆担当として選ばれなかったことへの意趣返しとも言われている)。
 2002年にはイタリアの現代音楽を代表する作曲家、ルチアーノ・ベリオによる補筆完成版が世界初演されて話題を呼んだ。ベリオによる補筆は、トゥーランドットの「心変わり」に時間を割き、幻想的で繊細な響きと、作中に出てきた旋律をコラージュ風に扱う技法が特徴的で、一瞬でトゥーランドットが「心変わり」し、〈誰も寝てはならぬ〉の旋律が回帰して大合唱で歌われつつ華々しく集結するアルファーノ版とは対照的な作品となっている。このほか、2008年には中国の作曲家、郝維亜(ハオ・ウェイヤ)による独自の補筆完成版も発表された。

プッチーニ作品の聴きどころ

 プッチーニの作品の聴きどころは、なんといってもまず旋律だろう。特にオペラ作品における、旋律そのものによる性格や心情の描写はみごとだ。
 そして、オーケストレーションの技術も、ワーグナーやラヴェル、マーラーのように注目されることこそ少ないものの、相当に高いものである。特に木管楽器を活用して、心理描写や情景描写に力を入れているあたりが、彼のオペラ作品の特徴であろう。アリアや二重唱の部分においても、単なる「伴奏」の域を完全に脱しており、この点では彼が憧れたオペラ界の大先輩、ヴェルディに並ぶ、いや凌駕していると言ってもよいだろう。
 没後100年を迎える2024年は、プッチーニの作品の演奏機会が増えている。ぜひ、さまざまな角度から彼の作品を聴き、その美しさを存分に味わってほしい。

<文・加藤新平>

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