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Program library Vol.11 音楽の父、J.S.バッハ(前編)

Program library Vol.11 音楽の父、J.S.バッハ(前編)
 コンサートをより楽しむには、その演奏される曲を理解しておくことが大切。作品が世に出るまでのエピソードや人気の背景を知れば、コンサートがさらに楽しくなることでしょう。そこでスタートした、コンサート・プログラムを簡単に予習する特集企画「Program library」。  Vol.11はJ.S.バッハ。「音楽の父」「大バッハ」、ドイツ音楽の「三大B」と複数の“ふたつ名”があるバッハは、西洋音楽の基礎を構築した作曲であり、クラシック音楽において非常に重要な作曲家です。また日本ではバロック音楽を代表する作曲家としても位置付けられており、小学校や中学校の音楽の授業で初めて作品に触れた方も多いのではないでしょうか?  前編ではバッハの生涯と鍵盤作品を見ていきましょう。

超概略・バッハの生涯

 ヨハン・セバスティアン・バッハは、1685年にドイツ中部の都市・アイゼナハで生まれた。父親のヨハン・アンブロジウスをはじめ、代々音楽家の家系であった。父親から職業音楽家としての教育を受けたが、1694年に母親を、翌年には父親を相次いで亡くし、バッハはオーアドルフで教会オルガニストを務める兄のヨハン・クリストフの家に引き取られた。
 1700年にはドイツ北部の街、リューネブルクの高等学校の給費生となり、試験の倍率が高いことで知られる「朝課合唱隊」の聖歌隊員に合格した。バッハの音楽家としてのキャリアは、今風に言えば「少年合唱団」から始まったのである。ただし、入団からほどなくして変声期を迎えたため、彼は器楽奏者として参加していたとも言われている。リューネブルクではドイツならではの音楽を、近隣のツェレではフランス文化の影響が強い音楽を吸収し、バッハは音楽家としてのボキャブラリーを増やしていった。
 高等学校卒業後のバッハは、1703年8月にアルンシュタットの教会オルガニストとして就職した。礼拝での演奏と少年聖歌隊の指導が彼の仕事であった。
 1705年、バッハは教会に4週間の休暇を申請し、アルンシュタットから400キロ離れたリューベックまで徒歩で旅行に出かけた。当時ドイツ最高峰のオルガニストであった、ディートリヒ・ブクステフーデの演奏を聴くためであった。リューベックで彼はブクステフーデの演奏を聴き、強く影響を受けた。ブクステフーデも若いバッハの才能を高く評価し、自身の娘との結婚を条件に後継者となることを打診したが、バッハはこれを固辞したと言われている。
 ブクステフーデの影響は、日本でも有名な《トッカータとフーガ》などに強く表れている。だが、4週間の申請に対して、なんと3か月もアルンシュタットを留守にしたバッハへの風当たりは強く、1707年にはミュールハウゼンの教会オルガニストへ転職した。同年、マリア・バルバラと結婚した。
 1708年、バッハはヴァイマルへ転居し、ザクセン=ヴァイマル公国の宮廷オルガニスト兼宮廷楽師となった。この地でバッハは多くのオルガン曲を作曲するかたわら、アントニオ・ヴィヴァルディなどイタリアの作曲家の作品を研究した。特に「協奏曲」という形式を研究した成果は、《ブランデンブルク協奏曲》へと結実した。
 音楽的には充実していたが、金銭面での待遇は必ずしも良いものではなかったため、ヴァイマルでのバッハは常に転職を考えていた。1717年にはアンハルト=ケーテン侯国の宮廷楽長として招聘されたが、ヴァイマルの宮廷に転職活動を伏せたままアンハルト=ケーテン侯国のオファーを受けたことが問題視され、約1か月投獄された。
 ケーテンの宮廷楽長として赴任したバッハは、従来よりもかなり高い給料を得られるようになり、充実した環境で宮廷のための音楽を作曲した。《無伴奏ヴァイオリン・ソナタ》や《管弦楽組曲》《ブランデンブルク協奏曲》、さらには《平均律クラヴィーア曲集》などの器楽曲や管弦楽曲の多くは、このケーテンで書かれている。
 1720年5月に妻マリア・バルバラが急逝する不幸に見舞われ、同年9月には転職活動の一環で応募したハンブルクの聖ヤコビ教会のオルガニストに合格したものの、結局バッハはこの仕事を辞退してしまった。
 1721年には、宮廷ソプラノ歌手のアンナ・マグダレーナ・ヴィルケと再婚した。優秀な音楽家であった彼女は、写譜を担当するなどバッハの創作活動を献身的に支えた。バッハは子沢山で知られており、息子たちの中には音楽家になった者も多いが、特にアンナ・マグダレーナとの間の子のひとり、ヨハン・クリスティアン・バッハは音楽家として大成し、モーツァルトなどに影響を与えた。
 ケーテンで幸福の絶頂にあったバッハであったが、領主レオポルト侯が結婚したことをきっかけに暗雲が立ち込めた。妃となったフリーデリカは大の音楽嫌いで、楽団の規模や予算が1721年頃から激減したのである。
 1723年、聖トーマス教会の合唱団や礼拝の音楽監督、付属小学校教員、ライプツィヒ市音楽監督を兼ねる要職「トーマスカントル」として招かれ、バッハはライプツィヒに赴任した。ここでは教会音楽の作曲を主に手掛け、7年間で140曲を超える教会カンタータ(宗教的な題材の、オーケストラ伴奏つき声楽曲)や、《マタイ受難曲》を作曲した。しかし、ライプツィヒでもバッハは仕事上のトラブルを多く抱え、市参事会や教会の聖職者会議としばしば対立した。
 1729年から、大学生の演奏団体コレギウム・ムジクムの指揮者に就任し、1740年までその職を務めた。ごたごた続きでウンザリしていた教会音楽の仕事よりも、若者たちのために作曲することにバッハは喜びを見出し、世俗カンタータ(宗教的な題材ではなく、大衆にわかりやすい題材の、オーケストラ伴奏つき声楽曲)やチェンバロ協奏曲などを精力的に作曲した。《ゴルトベルク変奏曲》《音楽の捧げもの》も晩年に書かれた傑作である。
 《フーガの技法》を未完のまま遺して、1750年にバッハはその生涯を終えた。
 彼は、生涯にわたってドイツから出ることなく、中部ドイツ、北ドイツ、南ドイツ、さらにはフランスやイタリアの音楽様式を吸収して、グローバルな視点で創作に取り組んだ。しかし、オペラを書かず国際的な活躍もなかったことから意外に彼の知名度は低く、晩年の作風は、当時としてもかなり古風なものであったことから、死後バッハは急速に忘れられた。ある逸話では、彼の自筆譜がライプツィヒの肉屋の包み紙に使われていたという。
 バッハが「音楽の父」といわれるまでに評価されるきっかけを作ったのは、フェリックス・メンデルスゾーンだろう。1829年、20歳のメンデルスゾーンは《マタイ受難曲》の復活上演を実現し、バッハの再評価につなげた。

バッハの鍵盤楽曲

 日本においては、バッハというとやはり鍵盤楽器のための作品がよく知られているだろう。
 1720年から1723年にかけて、ケーテンの宮廷楽長時代に作曲した《インヴェンションとシンフォニア》 BWV772-801は、長男フリーデマンのために書かれた作品がもとになっており、複数のパートを絡ませる「対位法」という技術を活かしつつ、教育用の作品としても、観賞用の作品としても優れたものに仕上げられている。
 《インヴェンションとシンフォニア》に続いてピアノ学習者が触れる作品といえば《平均律クラヴィーア曲集》であろう。第1巻(BWV846-869)は1722年、第2巻は(BWV870-893)は1742年にそれぞれ完成した。24種類の長調・短調すべてを使い、プレリュードとフーガでワンセット……という形で統一された曲集は、その旋律の美しさやフーガの堅牢さで多くの人に支持されている。特に、第1巻第1番のプレリュードは、一定のリズム・パターンでアルペジオを繰り返しながら刻一刻とハーモニーが変化してゆく幻想的な作風が人気を博し、後年フランスの作曲家シャルル・グノーがこの曲に歌のメロディをのせた《アヴェ・マリア》を作曲したことで知られている。
 バッハの鍵盤楽曲といえば、さまざまな種類の舞曲をあつめた「組曲」もよく知られている。《イギリス組曲》 BWV806-811、《フランス組曲》 BWV812-817ともに、「アルマンド」「クーラント」「サラバンド」「ジーグ」という4種類の舞曲を軸に、前奏曲やメヌエットなどを加えた「組曲」となっており、バロック時代の宮廷音楽の雰囲気を今に伝えている。
 1734年に作曲した《イタリア協奏曲》 BWV971は、「協奏曲」と銘打たれているものの、チェンバロのための独奏曲である。フォルテとピアノの対比を強調し、独奏曲ながら、オーケストラとチェンバロの掛け合いであるかのような構成をとっており、バッハのイタリア音楽研究の成果が遺憾なく発揮されている。
 1741年に作曲した《ゴルトベルク変奏曲》 BWV988は、「不眠症に悩む伯爵のために、バッハが音楽の手ほどきをしたゴルトベルク青年が演奏した」という逸話があるが、近年の研究ではこの逸話は創作であろうと言われている。しかし、そうした逸話抜きに、主題にあたる「アリア」と30の変奏、そして最後に「アリア」を回想して終える壮大な構成は多くの人をひきつけてやまない。「ららら♪クラブ」読者のみなさまの中には、グレン・グールドのレコードがきっかけで本作を知った方も多いのではないだろうか。
 バッハは数多くのオルガン曲も作曲している。1704年ごろに作曲した《トッカータとフーガ ニ短調》 BWV565は、冒頭部分の旋律がきわめて特徴的で、変化に富んだトッカータと、堅牢なフーガの対比がみごとな作品である。わが国では「鼻から牛乳~♪」の印象が強く持たれているが、ぜひ先入観抜きに聴いてほしい作品である。
 「小フーガ」の愛称で親しまれる《フーガ ト短調》 BWV578もまた、わが国では極めてユニークな替え歌が知られているが、いったんそれは忘れて音そのものと向き合ってみると、バッハの技術の粋を集めた傑作であることがわかる。
 「後編」では、バッハの室内楽曲、管弦楽組曲、協奏曲、そして受難曲、ミサ曲、オラトリオ、カンタータなどの声楽曲をご紹介する。

<文・加藤新平>

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