今、最も勢いのある若手指揮者、原田慶太楼の活躍から目が離せない。 7月10日、東京交響楽団の正指揮者就任の発表があったかと思うと、7月22日には日本で初となるCDをリリース。もともと高校生でアメリカに渡り、その後アメリカやロシアで学んだ異色の経歴もまた、彼の特徴である。そんな原田のこれまでの歩みとともに、現在の活動から今後のビジョンまで余すところなく語ってもらった。
©Claudia Hershner
「僕はこのために生まれてきた」
―― 原田さんと、音楽との出会いはいつ頃でしたか? 音楽がそこまで身近な家庭ではなかったですね。僕も覚えていないくらい小さい頃、バレエ『くるみ割り人形』を観に行ったらしいんですけど、その時も上演中すやすや眠っていて、親も、この子に音楽は向いていないな、と思っていたそうです。音楽は親の影響でビートルズやクィーン、シュプリームスなど70年代ロックを聴いていました。クラシックの道に進む要素はゼロです。しかし、小学校の時通っていたインターナショナルスクールで、ミュージカル『ウエストサイドストーリー』を観たんですが、出だしのサックスのソロを聴いて「これだ、これがやりたい」と思いました。これが僕の音楽との出会いであり、始まりです。その後、須川展也さんのCDを聴いた影響もあって中学生でサックスを始めました。 ―― 高校はアメリカの学校に入学されたんですよね? アメリカでは、インターロッケン芸術高校にサックスで入学しました。幼い頃のミュージカルの衝撃もあって、ブロードウェイのピットミュージシャンを目指していました。ミュージカルの上演に携わりながら世界を周ることができたら素晴らしいな、と。学校では吹奏楽部だったんですが、当時、部活の顧問は東京佼成の名誉指揮者でもあるフレデリック・フェネル先生で、彼の指揮のもとで演奏していると、この世のものとは思えないオーラにどんどん惹かれていきました。僕は違う世界に連れて行かれたような感覚になって、「指揮者ってカッコいい、これをやろう」と思いました。そして、マエストロに指揮を学びたいと伝えました。フェネルからは、「テクニックというよりは、音楽の感性や表現の仕方なら教えてあげられる。We can try ! 」と言ってもらえました。そこからレッスンを受け始め、高校2年生の時、フェネルの野外コンサートのアンコールで、指揮をするチャンスをもらったんです。学校のテーマソングでした。 ――その時、原田少年は? もう震えたね。鳥肌が立ちました。「僕はこれをやるために生まれてきたんだ」って思いました。 ――フェネルのレッスンの他に、指揮の技術はどうやって磨いていったんですか? 色んな友達に、指揮を見てもらうことをしていました。例えば、「ピザ奢るから僕の指揮を見て!」とお願いしたりとか。 ――フランクですね! だって、指揮は人がいないと練習にならないから。確かに指揮法と呼ばれるものはあります。でも、指揮者が頭を掻いていたってオケは鳴るんです。だから、「僕がこう動いたら人はどう動くんだろう」ということを研究しました。あとは、ビデオでとにかく色んな人の演奏を見てモノマネしました。 ――どんな人を? 特に3人のロシア人指揮者、ヴァレリー・ゲルギエフ、ユーリ・テルミカノフ、セミヨン・ビシュコフ、彼らの指揮が素晴らしいと思いました。調べると、3人ともイリヤ・ムーシンという先生に師事していたことが分かりました。すでにムーシン先生は亡くなられていましたが、サンクトペテルブルクに行けば、ゲルギエフらの指揮に近づけるのではないかと思い、僕はサンクトペテルブルクへ行きました。 ――ロシアの指揮法と、アメリカ人のフェネルとではまたスタイルが違うのでは? そう、全く違います。でもね、彼らは作曲家や音楽というものを大事にしている。音楽のミューズ(作曲家の魂)に愛されているんです。こうしてサンクトペテルブルクでも学び、20歳の時にモスクワ交響楽団と共演しました。指揮を始めてから2年後のことです。モットーは "Knock on THE door"
――ロシアに渡りプロオケを指揮した原田さんですが、キャリアについてはどのように考えていましたか? 「指揮者って何?」ということをずっと考えていました。ほって置いても音が鳴るオーケストラに、どうして指揮者が必要なんだろう。そして有名になる指揮者とそうでない指揮者がいて、さらにこれをやったら有名になれるという正解はないですよね。僕にとって、指揮者としてやっていくことは謎だらけでした。 ――原田さんはどうしたんですか? 実際に指揮者として活躍している人に聞くしかない、時間を共に過ごすことで謎を解明しようと思いました。ちょうど当時僕が尊敬していたロリーン・マゼールがサマーフェスティバルをやる、というリリースを見てすぐ連絡をとりました。 ロリーン・マゼール氏と
――素晴らしい行動力ですね。
僕には人生のモットーがあるんです。
「Knock on THE door」(ドアをノックしてみる)
僕は人生で何万回も「NO」と言われてきました。だからダメ元でもいいんです、だってやってみないとわからないから。日本語でいうと「当たって砕けろ」といったところでしょうか。
――「NO」と言われるのは怖くないですか?
怖くないですね。もともとOKが出るなんて、思っていない。でも、ネガティブな気持ちではノックしないです。キラキラした気持ちで、「トントント〜ン」って。マゼールからOKがもらえて、早速アシスタントとして、彼の家での住み込み生活が始まりました。そこで、本番前の練習の仕方や音楽作りを見て学びました。それを真似ながら、だんだんと自分なりにアレンジしていきました。
――マゼールとの素晴らしい時間を過ごされた後は?
ボストン交響楽団の当時の音楽監督、ジェームズ・レヴァインがタングルウッド音楽祭に呼んでくれました。小澤征爾賞をいただいて、本当は小澤さんと共演するはずだったんですが、ご病気で、僕が代わりに指揮をしました。また、レヴァインのオペラのアシスタントをやっていました。
――今もオペラを演奏されますか?
海外では、オペラとオケを半分ずつくらいの割合でやっています。もともと、オペラ大好き人間なんです。
――どうしてですか?
高校生の時、ジョギング中にプッチーニの『ラ・ボエーム』が流れてきて、ジョギングが止まってしまいました。1幕終わりのロドルフとミミのアリアを聴いて号泣しました。「こんなに美しい音楽があるんだ」と。同時に、オペラってミュージカルのいわばひいおじいさんのような存在で、ミュージカルはここから来たんだ、と思って嬉しくなりました。
――ここで幼少期のミュージカルへの興味と繋がる訳ですね。原田さんの話を聞いていると、人生のここぞ、という時にご自身の直感を大切にされる印象があります。
なんでも自分でやっていますからね。高校も自分で探してオーディション用のテープ送りました。
――すごい、常にノックし続ける人生。
ノックしてみて仮にダメだったとしても、開き直るのにかかる時間は3秒くらいです。(笑)オペラみたいでしょ?
アメリカでの本番