バルトークと民謡採集
ベラ・バルトーク(1881-1945)は、ナジセントミクローシュという現在のルーマニア領に生まれました。11歳で最初の演奏会を行いベートヴェンのピアノソナタ第21番「ヴァルトシュタイン」を演奏したと言われています。その後、ブダペスト王立音楽院(現在のリスト音楽院)へ進学し、作曲とピアノを学びます。民族音楽の採譜を行うようになったのは、25歳の時でした。それまで、バルトークはワーグナーやR.シュトラウスの作品を熱心に研究し、自らの創作スタイルを模索していました。しかし、民謡との出会いにより、バルトークは「民謡こそ、自身の作曲のための楽想を内包する宝庫ではないか」と気づいたことがきっかけで、その後2度の世界大戦により中断を余儀なくされながらも、民謡の採譜と研究は彼のライフワークとなりました。32歳の時には学術論文も発表したり、晩年にはアメリカへ移住しますが、移住してもなお、バルトークは民謡の研究に勤しんだと言います。
民謡採譜にあたっては、同じくハンガリーの作曲家であるコダーイとの出会いがありました。採譜はルーマニア、スロバキア、など様々な地域に及び、家族にも当時公用語として用いられていたドイツ語を禁止するなど、徹底した研究を行なっていたようです。採譜された民謡の影響はピアノ曲を始め、歌曲、その他生涯に渡って作曲した弦楽四重奏にも見ることができます。
ルーマニア民族舞曲について
1910年と1912年に採譜された7つの民謡から6曲がピアノ用に作曲されました。
第1曲 棒踊り
第2曲 飾り帯の踊り
第3曲 足踏み踊り
第4曲 角笛の踊り
第5曲 ルーマニア風ポルカ
第6曲 早い踊り
それぞれの曲には、例えば、第1曲は男性が踊る踊り、第2曲は少女たちの踊り、というように、元になる踊り手たちが存在します。「ルーマニア」という地域もバルトークが多く採譜をした地域で、この他にも「ソナチネ」(ピアノ作品)、歌曲「9つのルーマニア民謡」、合唱曲「2つのルーマニア民謡」などもあります。
また、編曲もオーケストラから、ヴァイオリンなど様々な形態で存在し、バルトーク作品の中でも現代でも演奏機会の多い1曲であると言えます。