icon-sns-youtube icon-sns-facebook icon-sns-twitter icon-sns-instagram icon-sns-line icon-sns-tiktok icon-sns-etc

Program library Vol.7 ピアノの詩人、ショパン(前編)

Program library Vol.7 ピアノの詩人、ショパン(前編)
ポーランドの紙幣にもなっているショパン
 コンサートをより楽しむには、その演奏される曲を理解しておくことが大切。作品が世に出るまでのエピソードや人気の背景を知れば、コンサートがさらに楽しくなることでしょう。そこでスタートした、コンサート・プログラムを簡単に予習する特集企画「Program library」。  Vol.7は「ピアノの詩人」ショパン。世界でもっとも注目される音楽コンクールといっても過言ではない「ショパン国際ピアノコンクール」に名前を冠すなど、クラシック音楽の世界での最重要人物に挙げられます。ショパンが残した数々のジャンルにわたる作品を見てみましょう。

はじめに

 「ピアノの詩人」と呼ばれ、その作品が多くの人に愛される作曲家、それがフレデリック・ショパンだ。クラシック音楽に関心のない人でも一度は作品を耳にしたことがある……という点では、わが国においてモーツァルトやベートーヴェンに比肩しうる位置を占めていると言えるだろう。
 本稿では、ショパンの作品の魅力とその特徴を、独自の視点で紐解いてみたい。「前編」では、彼の生涯と、彼が残したピアノ独奏曲のうち、ポロネーズ、マズルカ、夜想曲、練習曲、ワルツなどについて概観する。

超概略・ショパンの生涯

 フレデリック・ショパンは1810年にワルシャワ公国のジェラゾヴァ・ヴォラで生まれた。父ニコラはフランス人で、若いころにポーランドに移住してきた人物であった。母ユスティナは没落したポーランド貴族の娘だった。プロの演奏家ではないものの、ニコラはフルートやヴァイオリンを、ユスティナはピアノをたしなみ、音楽を教える仕事もしていたことから、フレデリック少年は幼少期から音楽に親しんだ。
 1816年、6歳になったショパンはチェコ人のピアニスト兼作曲家、ヴォイチェフ・ジヴヌィにピアノを習い始めた。翌年、7歳のときには現存する最古の作品《ポロネーズト短調》を作曲・出版し、作曲家デビューを果たした。1818年、8歳のときにワルシャワでピアニストとしてもデビューし、モーツァルトの再来かのような「コンポーザー・ピアニストの神童」として知られるようになった。
 1823年からユゼフ・エルスネルに対位法と和声を師事し、1828年、16歳でワルシャワ音楽院に入学して引き続きジヴヌィとエルスネルのもとで学んだ。ふたりの指導者はショパンの才能を高く評価しており、特にエルスネルは無理やりあれこれ教えようとせず、ショパンが学びたいように学ぶことを静かに見守るという「教えない」指導法を採った。権威主義と型にはめ込む教育に触れずに済んだことが、ショパンにとっては幸いであった。
 1828年にはベルリンに2週間滞在し、オペラを鑑賞するかたわらメンデルスゾーンなど著名な作曲家と交流した。1829年にはワルシャワ音楽院を首席で卒業し、ウィーンで演奏会を開いて、音楽家としての「外国デビュー」を果たした。
 1830年11月2日、さらなる活躍の場を求めてショパンはポーランドを離れ、ふたたびウィーンに向かった。その直後に発生した、ロシア帝国の支配に抵抗する若い下士官たちの武装蜂起(11月蜂起)はショパンに衝撃を与えた。
 当時のオーストリアはロシア寄りの立場をとっており、11月蜂起に対する批判的な姿勢が強まっていた。反ポーランド感情が高まる中で、ショパンが活躍する機会はウィーンには無く、1831年9月、パリに拠点を移した。
 1832年2月26日、パリで初めてのコンサートを開いて好評を博した。花の都パリで大スターとして活躍する道が開けたかに思えたが、パリに拠点を移してからのショパンは大規模な公開演奏会を開催することは少なくなった。彼は貴族や資産家のサロンに出入りして演奏するとともに、作品を出版し、そしてたくさんのピアノの弟子を教えることで充分な収入を確保しており、あえて大舞台に立つ必要が無かったのである。ベルリオーズ、メンデルスゾーン、ベッリーニ、リストといった作曲家たちや、詩人のハイネ、画家のドラクロワなどさまざまな芸術家と交流し、人脈を広げていった。
 表舞台にほとんど出てこないにも関わらず、ピアニストとしても作曲家としても成功したショパンであったが、恋愛の面では必ずしも幸福ではなかった。1835年にドレスデンで再会した、ワルシャワ時代の顔見知りのマリア・ヴォジンスカに激しく恋し、ふたりは婚約したが、ショパンが病気がちであったことを理由に結婚は延期され、1837年に婚約は破棄された。
 失意のショパンの新たなパートナーは、作家のジョルジュ・サンド(本名はオーロール・デュヴァン)であった。1836年にすでに知り合っていたふたりは、1838年から交際を始め、マヨルカ島に移住して、さまざまな困難に直面しながらも充実した創作活動を展開したほか、1839年からは冬はパリで、夏はフランス中部のノアンにあるサンドの別荘で暮らすようになった。
 ショパンの肺疾患が悪化するにつれて、ショパンとサンドの関係は恋人同士から「患者と看護婦」に近いものへと変化した。リベラルなフェミニストであったサンドにとって、ショパンとの対等な関係が崩れ、「お世話係」というポジションになったことは耐え難いものだった。1847年、裕福な女優と病弱な王子という、まるでサンドとショパンをモデルにしたかのような小説『ルクレツィア・フロリアーニ』をサンドが発表した。ショパンがこの小説をどうとらえたかについては諸説あるが、サンドのショパンに対する愛情は冷え切っており、同年夏には毎年恒例だったノアン行きをショパンは取りやめた(一説には、サンドから絶縁状に等しい手紙が届いたとも言われている)。10年にわたる交際はこうして終わった。
 1848年にパリで最後となる演奏会を開き、弟子のひとりジェーン・スターリングの手配でロンドンへ演奏旅行を行った。演奏会は成功し、ヴィクトリア女王の御前演奏も実現するなど演奏家としては充実していたが、身体的には衰弱する一方で、ショパンは旅行中に遺言状を書いている。
 1848年11月にパリへと戻ったショパンは、作曲に情熱を燃やしたが、体調は悪化の一途をたどった。1849年6月には姉のルドヴィカに連絡をとり、パリへ来てくれるよう頼みこんだ。1849年10月17日の深夜、姉のルドヴィカや数人の友人たちに看取られてこの世を去った。享年39歳。短すぎる一生だった。

ショパンのピアノ独奏曲について

 ショパンは生涯に多くの作品を書いたが、そのほとんどがピアノ独奏曲である。作曲家と言えば自らピアノを弾き、指揮もし、オペラや交響曲を書く……という時代にあって、ピアノ独奏曲ばかりを書いたショパンのようなケースはめずらしい。
 数多くのピアノ独奏曲の中でも、ショパンが生涯にわたって書き続けていたジャンルがある。それが「ポロネーズ」と「マズルカ」、そして「ノクターン」だ。これら3つのジャンルは、ピアノ協奏曲をはじめ、多くの作品に大きな影響を与えており、まさにショパンの創作活動の根幹をなすものとなっている。

ポロネーズについて

 ポロネーズとは、ゆったりとした4分の3拍子で、「タンタタ、タ、タ、タ、タ」という行進曲風のリズムが特徴的なポーランドの民俗舞曲である。一説によれば、もともとは行進曲であったものが舞曲として定着したものとされている。
 1817年、7歳の時に作曲した《ポロネーズト短調》は、現存する最古の作品でありながら、堂々たるスケール感と、ピアノの音域の広さを活かしたショパンらしい書法がみられる。
 1838年に作曲した《ポロネーズ第3番》イ長調 Op.40-1は「軍隊ポロネーズ」の愛称で知られ、分厚い響きとくっきりとしたリズムによって、元来、ポロネーズは行進曲であったことを聴き手に思い起こさせる。
 1842年に作曲した《ポロネーズ第6番》変イ長調 Op.53は、「英雄ポロネーズ」という名を与えられ、ショパンの代表作の一角を占めている。半音階を多用した劇的な導入部に続いて、朗々と歌い上げられる装飾的な主題は「英雄」と呼ぶにふさわしい。中間部の左手パートの執拗なオスティナートとファンファーレ風の旋律も強烈な印象を残す。
 1846年に発表された《ポロネーズ第7番》変イ長調 Op.61は、ミステリアスな和音とカデンツァ風の自由な書法で開始され、うねるような転調の果てにポロネーズの主題が現れる。しかし全体としては、ゆったりとした旋律と装飾的な書法、そしてポロネーズらしからぬ3連符の伴奏に彩られており、ポロネーズらしさは時折こだまのように響いてくる「タンタタ、タ、タ、タ、タ」というリズムに現れているにすぎない。「幻想ポロネーズ」と呼ばれるのもうなずける作品である。

マズルカについて

 マズルカもまた、ポーランドの民族舞曲である。マズルカはかなり奥が深く、本稿ではマズルカの本質について詳述を避けるが、簡単に説明するならば、4分の3拍子で、「タン、『ター』」または「ターッタ、タン、『タン』」というリズムを持ち、二重鍵括弧で括った2拍目の『ター』または3拍目の『タン』にアクセントが置かれていることが特徴である。
 ショパンは50曲以上のマズルカを書いており、まさに「ライフワーク」であったことがうかがえる。
 まずご紹介したいのは、《マズルカ第5番》変ロ長調 Op.7-1だ。ショパンのマズルカの中でも抜群の知名度を誇るこの作品は、シンプルな伴奏の上で軽快で弾むような旋律が奏される。中間部では、マズルカの伴奏によく使われたバグパイプを模したと思われる、変ト音と変ニ音による空虚五度(※パワーコード。長三和音、短三和音の第3音を鳴らさない、長調、短調いずれの性格も持たない完全5度の響き)の上で変ロ短調の旋律が演奏される。しかも、変ロ短調の音階の4番目の音が半音上げられていることによって、不協和な響きが混ざって「うなり」を生じる。この部分は音階も和声も従来の西洋音楽の理論から逸脱しており、民族音楽を芸術音楽に昇華させた一例であると言えよう。
 マズルカがショパンの「ライフワーク」であったことを示すものとして、《マズルカ第49番》ヘ短調 Op.68-4をご紹介したい。この作品はショパンが生前最後に書いていた作品であり、スケッチのまま残されている。なかなかヘ短調に着地せず、半音階的に浮遊する旋律と和声がミステリアスな印象を与えるとともに、死の床にあってもなおショパンの創造性が衰えていなかったことを示している。

夜想曲(ノクターン)について

 「夜想曲」というジャンルは、アイルランド出身の作曲家兼ピアニストであるジョン・フィールドが創始したものであるとされている。歌謡的な旋律を平易な伴奏に乗せて奏でるサロン向きのジャンルで、サロンを活動拠点としたショパンにはうってつけの形式であった。
 《夜想曲第2番》変ホ長調 Op.9-2は、パリに拠点を移したショパンが作曲した作品で「ショパンのノクターン」といえばコレ! というべきものである。オペラ・アリア風の装飾的で甘美な旋律をワルツ風の伴奏が支えるという、夜想曲の基本に忠実な作風であり、その親しみやすさから数多くの映画、テレビドラマ、CMなどで使用されている。
 最晩年に書かれた《夜想曲第18番》ホ長調 Op.62-2では、歌曲風の旋律を、ゆったり歩くような伴奏が支えている。頻繁な転調や、立体的な中間部の書法などに、ショパンの作曲技法の円熟を聴きとることができる。

練習曲について

 練習曲とは、読んで字のごとしで、楽器の演奏技術を習得するための曲である。日本では『ハノン』と呼ばれてピアノ教育の現場で長年活用され、一部には熱狂的なマニアもいる、シャルル・ルイ・アノンによる《60の練習曲によるヴィルトゥオーゾ・ピアニスト》も練習曲のひとつである。
 こうしたものと対極に位置するものが、「演奏会用練習曲」と呼ばれる作品で、演奏会で技巧と音楽性を存分に発揮することを目的とし、練習だけでなく鑑賞にたえうるものとして書かれたものである。
 ショパンは《12の練習曲》Op.10と《12の練習曲》Op.25というふたつの練習曲集を書いており、とりわけOp.10の第3番 ホ長調〈別れの曲〉や第5番 ト長調〈黒鍵〉、第12番 ハ短調〈革命〉、そしてOp.25の第1番 変イ長調〈エオリアン・ハープ〉や第11番 イ短調〈木枯らし〉がよく知られている。これらの愛称は後世につけられたもので、ショパンがつけたものではないが、作品の特徴をよく表している。特に日本で人気の高い〈別れの曲〉はゆったりとした旋律が印象的だが、その旋律の背景で分厚い伴奏を弾き続けなければならず意外にスタミナが要る作品。そして〈革命〉は、伴奏を受持つことが多い左手が八面六臂の活躍を見せる。

ワルツについて

 ショパンが本格的にワルツを書き始めたのは、ウィーンに暮らしていた時期ではなく、パリに拠点を移してからであった。ウィーン時代のショパンはウィンナ・ワルツに対する嫌悪感を当時の手紙に書きつづっており、本格的にワルツの作曲に取り組むこともなかったのである。
 1833年に書いた《華麗なる大円舞曲》Op.18は、ショパンにとって最初のワルツであるが、ファンファーレ風の導入から聴くものを惹きつけてやまず、ウィンナ・ワルツのリズムこそないものの、調を変えながら5つのワルツを紡いでいく書法は、ウィーンで聴いていた実用的な舞踏音楽としてのワルツを肉付けしている。
 「後編」では、ショパンのピアノ独奏曲のうちスケルツォ、バラード、ピアノ・ソナタなど、室内楽曲、歌曲、ピアノと管弦楽のための作品について紹介する。

<文・加藤新平>

SHARE

旧Twitter Facebook