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子どもの頃からグローバル! 福間洸太朗が考えるピアノと音楽の世界(前編)

 世界を股にかけて活躍するピアニスト、福間洸太朗さん。少年時代から海外へ目を向け、クラシック音楽にフィギュアスケートや香水を掛け合わせる異色のコラボレーションも手掛けるなど、オープンな姿はまさに唯一無二。それでいて本質に真摯に迫る音楽性も、聴衆や専門家から非常に高い評価を獲得しています。そんな福間さんが3月に開催する演奏会のテーマは“夜”。一期一会の演奏を大切にするという福間さんにお話を伺いました。
©Rolf Schoellkopf

14歳、アメリカの地での決意

――ピアノと出会ったきっかけを教えてください。 最初にピアノを始めたいと言ったのは3歳くらいの時でした。2人の姉がピアノを習っていたのを見て「自分も習いたい」と言ったのですが、私が男の子だったからか、母が信じてくれなくて「5歳になるまで待ちなさい」と言われたのです。私はそれを素直に受け止めて、5歳の誕生日に「今日からやっていいの?」と言ったら「本気だったのね」と驚かれて。すぐにピアノの先生に電話してくれて、その次の週から私もレッスンを受けることになりました。
幼少期、ピアノの椅子におすわり
――5歳になるまではピアノに触りもしなかったのでしょうか? 隠れて触ってたりはしていました(笑)。姉が簡単な曲を教えてくれたことを覚えています。 ――やりたいと思ったのは、ピアノの音色に惹かれたのでしょうか。 そうですね。母親は演奏はしませんがクラシック音楽、特にピアノが好きで、レコードやCDでピアノを聴いている隣で、私も自然と一緒に聴いていました。姉たちも家で弾いていましたから、私にとってピアノの音色は生活の一部になっていたわけです。聴いていたCDの中では特にマレイ・ペライアの弾く音に惹かれていて、彼の弾くシューベルトの《即興曲第2番》などを好きでよく聴いていたのを覚えています。子供にしてはませていましたね(笑)。 ――大好きなピアノを習い始めて、ピアニストになろうと思ったのはいつ頃だったのでしょうか? 本格的にピアニストを目指そうと決意したのは中学校3年生の時ですね。それまでは国内でコンクールを受けていましたが、全国大会にも1回しか行ったことがなかったし、予選落ちも多かったし。ピアニストへの思いはありつつも、そんなレベルの自分がピアニストになるのは難しいだろうなって、遠い夢の世界という感じだったんですよね。
小学校4年生の時の発表会
中学2年生、ピティナピアノコンペティション 全国大会にて
それが中学校3年生の時に、初めて海外のコンクール、アメリカのソルトレイクシティーで行われた「ジーナ・バッカウアー国際ピアノコンクール」の14歳から18歳までのヤングアーティスト部門に参加しました。私は14歳で受けたのですが、その時に弾いた曲は易しめの曲で、他の出場者はラフマニノフのソナタだとかリストの《メフィスト・ワルツ》だとか、大人顔負けの大曲ばかり。自分の来るところではなかったなと思ったのですが、運良く本選にも残って6位入賞をいただきました。 それだけでもすごく嬉しかったのですが、審査をされていた先生のおひとりが表彰式で私のところに来て「すべての演奏の中で一番音楽性を感じました」とおっしゃってくださいました。「あなたの音楽性を大切にしたら、きっと素晴らしいピアニストになれますよ」という言葉をいただいて、それが私にとって「これは何がなんでもピアニストになるぞ」という決意を抱かせてくれましたね。 ――すごく良い先生ですね、テクニックではなくて音楽性の部分に目を向けていただけるというのは。 そうですね。当時は大曲や難曲が弾けなかったので、音楽性の部分を評価されて「ピアニストになれますよ」と言っていただけたのはとても心強かったです。

勝って兜の緒を締める

――当時憧れていたピアニストはどんな方だったのですか? 自分の師事している先生がとても評価していたというのもありますが、クリスチャン・ツィメルマンはCDを聴いていたのはもちろん、演奏会にも行きましたね。先ほど申し上げたマレイ・ペライアが好きだったのもよく覚えていますし、アシュケナージのラフマニノフなども当時よく聴いていました。
ジーナ・バッカウアー国際ピアノコンクールにて
――彼らのどういったところに惹かれましたか? 一番ポイントとなるのは音の美しさですね。本当にクリスタルで輝く音を持っている方たちなので、まずそこに惹かれました。当時はそんなにピアノ作品を知らなかったのですが、多くの名曲の魅力を伝えていただいて感動していました。 師事していた先生がおっしゃっていたツィメルマンの素晴らしさが、「一音一音深く心の奥底で歌っているから、聴いている人の奥深くにも染み入る演奏になる」ということでした。それはやっぱり弾いていくうちに自分でも実感するようになっていって、そんな演奏がしたいなと思ったのを覚えていますね。 ――実際に自分がピアニストになれると思ったのはどのくらいの時だったのでしょうか。 クリーヴランド国際ピアノコンクールで優勝して、デビューできるようになった時です。それでも「本当にこのタイミングでデビューしていいのかな、まだ早いんじゃないか」と自分では思っていました。まだまだ勉強しなければならないことがあると思っていたので。もちろんデビュー・リサイタルは意気揚々と弾いて、喜びにあふれて幸せいっぱいでしたけど。反面、やっぱりもっと勉強していかなくてはと思いました。
内田光子さんと、クリーヴランドにて
良い意味でのプレッシャーもありました。優勝した時に地元の新聞に大きな記事が載ったのですが、「今回のコンクールの審査結果は議論の余地がある」だとか、「間違った結果を出したのではないか」とか、優勝した翌日の新聞にそんなことを書かれてしまって、結構ショックだったんです。けれどもコンクール事務局の音楽監督の方が「今はこの記事を読んで悲しいかもしれないけれど、どんな音楽家も自分の納得いかないような批評を“ほぼ100%”受けるものなんだよ」「どんなに厳しいことを言われても笑顔でステージに立って、お客さんを喜ばせて、ベストのパフォーマンスをする。それがプロの音楽家だということを覚えておいてね」と言ってくださったんです。いざデビューという時だったので、それを聞いて毎回100%、120%のパフォーマンスをしていかなければと思いました。 でも、このできごとは自分にとって非常に良かったと思います。優勝したからといって有頂天になったりとか天狗になって、なんてことは全然無かったです。当時はパリのコンセルヴァトワール(パリ国立高等音楽院)の3年生でしたが、優勝後もさらに学びたくていろんな講習会に参加しました。また、ドイツ音楽をもっと勉強しなければという思いがあったのでベルリンに拠点を移し、ベルリン芸術大学でドイツ人の先生に師事をして留学を続けました。

自然と海外へ

――留学はパリが最初でしょうか?
18歳、パリへ留学
そうです。高校卒業後すぐにパリに行きました。 ――その時はすでにフランス語や英語をある程度話せたのですか? 高校2年生の終わり頃からフランス語は勉強していたのですが、やはり現地の方のしゃべるスピードにはなかなかついていけなくてわからないことも多かったです。まだ卒業したての10代だったので住居探しや滞在許可証の提出、銀行口座の開設などは日本でもやったことがなく、そういったことを全部フランス語でやるというのはハードルが高かったですね。人に助けてもらった場面もありましたが、それでかなり語学力は鍛えられました。3~4ヶ月くらいでフランス語の日常会話はできるくらいに上達しました。 ――コンセルヴァトワールに留学するきっかけは何だったのでしょうか。 高校1年生の終わりくらいまでは、日本の音楽大学に進学することも考えていました。ちょうどその時期に浜松国際ピアノアカデミーを受講して、海外の先生のレッスンや、講習会に参加した留学生の話を聞いているうちに留学したいという思いが高まっていきました。当時師事していた井桁和美先生に相談したところ、「福間くんが留学したいなら全面的にバックアップしますよ」と応援してくださったんです。まずはヨーロッパに出て勉強したいという思いがあって、パリに意思が固まったのは高校2年生の終わりくらいでしょうか。世界各国から若い才能が集まっていてすごく刺激があり、音楽を勉強するにはいい街だと、現地に留学されている方から聞いていました。 また京都フランス音楽アカデミーも受講していて、そこでフランス人のドミニク・メルレ先生からも「若いうちはパリのほうが刺激があって良い」と、パリを勧められました。 それからコンセルヴァトワールに行きたい思いが強くなり、先生を探して、いろんなレッスンを受けたりしたのですが、最終的にはブルーノ・リグット先生に決めました。たまたま、実家にリグット先生がラヴェルの作品を講義して演奏するVHSがあったんです。当時フランス語はそこまで理解できていなかったのですが、情熱を感じるし、知的だし、こういう先生にレッスンを受けたいなという思いに駆られ、リグット先生に手紙を書いて、自分の録音を入れたカセットテープと一緒にコンセルヴァトワールに送りました。そしてなんと先生から返事をいただき、レッスンを受けて、その後無事に留学することになりました。 ――高校生なのにすごい行動力ですね。一般的な日本人は日本の中に完結しがちじゃないですか。なかなか海外へと行動に移せない。それができてしまうのは家庭環境の影響だったりするのでしょうか。 どちらかというとオープンな家庭環境だった気がしますね。というのも、ふたりの姉も高校生までにオーストラリアやアメリカ、フランスなど海外に行っており、言われてみれば家族の目は世界へと向いていましたね。 母は小さな塾で英語と数学を教えていました。私も小学5年生の時から母に英語を教わりしましたし、実はフランス語も最初の手ほどきは母からでした。母が使っていた入門書を借りて、読み方などいろいろとポイントを教えてもらいましたね。そういう意味では恵まれていたと思います。 ――以前に雑誌で世界中から毎月レポートする連載をされていましたが、コスモポリタンな福間さんのルーツがなんとなく理解できた気がします。 普通の公立高校だったのでインターナショナルスクールなどには行っていませんが、母の塾のイベントで、確かクリスマスの時期だったかな……日本に住んでいる外国人を募ってパーティーをするという企画があって、小学生の頃から参加していました。その頃は「ハロー」「センキュー」「バーイ」くらいしか言えませんでしたが、中学生の頃から徐々に会話ができるようになっていきましたし、そのおかげで海外に行った時にも外国人に対する恐怖心みたいなものはそんなになかったですね。

異種コラボレーションへの取り組み

――福間さんのオープンなところにもつながる話なのですが、少し前に新宿伊勢丹でやっていた香水フェアでスクリャービンの写真を飾っているブランドがあって。興味が出て見てみたら、コラボ企画ということで福間さんのプログラムが置いてあるじゃないですか。昔から宮本武蔵の『五輪書』をテーマにしたり、フィギュアスケートの羽生結弦さんと共演していたり、違う楽器と一緒に演奏するというレベルではなく、全然違うジャンルとのコラボを展開されていますよね。いつ頃からどういう意図でやり始めたんでしょうか。 元をたどっていくと、やはりパリ留学時代ですね。音楽以外のジャンルとのコラボは、2002年に詩の朗読とのコラボが初めてでした。フランス人作曲家の新曲を演奏するという企画で、「12の俳句」という日本の有名な俳句をモチーフにしたピアノ作品でした。フランス語で俳句が詠まれて、僕が演奏して……と交互にやっていくものでした。パリは本当に芸術の都で多くのコラボがあるので、そういったものに触れる機会は多かったです。 同時に、パリに留学したことで現代音楽への興味が高まりました。留学する前までは、現代音楽ってすごく難解なイメージを持っていたのですが、何かしらのきっかけでアプローチが変わり、その世界に入り込みやすくなる、ということを発見しました。それから自分でもいろいろアイデアを持つようになり、例えば2007年に武満徹作品のCDを、画家の斎藤祝子さんの絵画を展示しながら生演奏をするという企画も行いました。そのおかげでいろんなアーティストとコラボさせていただいております。
©Jean-Baptiste Millot
――そういったところからクラシックピアノの世界を外に広げようという思いがあるのでしょうか? いろんなアーティストとの出会いがある中で、音楽家が他のジャンルとコラボするというだけではなく、他のジャンルのアーティストからコラボしたいと持ちかけられることも多くあるんです。これらをきっかけに新しい世界が広がって、それによっていろんなことが学べて、学んだことを肥やしに自分の演奏に還元できたら素敵かなと思っているので、そういうお誘いにはけっこうオープンかもしれません。

世界を股にかける演奏活動

――福間さんは世界中を飛び回っているイメージですが、今はどんな生活ですか? 世界中というと大げさで、ほぼヨーロッパと日本を行ったり来たりという感じなのですが、2022年は年の40%くらいはヨーロッパにいました。ですがコロナ禍の最初の頃はほとんど日本にいたので、ヨーロッパではほとんど演奏活動はできませんでした。行けたとしても帰国してからの隔離期間があったりと、演奏会をキャンセルすることになってしまったので……。2021年からは渡欧も再開して、おかげさまで海外でも弾かせていただいております。 ――いったり来たり……福間さんは何か国語話せるのでしょうか? どれも適当なので、話せますって自分で断言するのもおこがましいのですが、英語、ドイツ語、フランス語は日常会話はできます。あとはスペイン語でしょうか。実はアルゼンチンにもエージェントがおりまして、そのマネージャーとはスペイン語でやりとりをしています。メールだとGoogle翻訳にかけたりできるので、なんとかやりとりできている状態ですが、直接話すとやっぱりわからないところも多い。きっとこういうことを言っているんだろうな、と想像しながら会話しているのでちょっと危険ですが(笑)、一応6回ほど行った南米のツアーもスペイン語オンリーで乗り切りました。今年からスペインのエージェントともご一緒するので、また勉強し直したいと思います。 ――今まで訪れた国の中で特に共感できる国はどこになりますか。 何に対して、というように絞ったほうがいいのかな。文化、その国の自然で一番感動した国は南アフリカ共和国です。南半球に行ったのが初めてで、その時に野外公園で見た珍しい動物や植物とか、そういうところで得た感動がすごく新鮮で、印象深かったです。 音楽的な意味での感動というと、やはりパリやオーストリア・ウィーンです。ウィーンは14歳の冬の、初めての海外でした。そこで本場の音楽やオペレッタを見たり、街の中でもクラシック音楽が聞こえたり。ウィーンは街を上げて観光名所としても盛り上げていますから、いろんなところにモーツァルトのチョコレートが置いてあったり、ベートーヴェンやシューベルトの置物があったりします。そういうものにテンションが上がって、こんなところに住みたいと感動したのは覚えていますね。 人々の寛大さといいますか、生活の豊かさを間近で見てびっくりしたのはアメリカですね。クリーヴランド国際ピアノコンクールの後、いろんな都市に呼んでいただきましたが、豪邸にホームステイすることもあり、お金持ちの方ってこういう生活をしているんだなぁと驚かされました。ただ、自分がそうなりたいかというと、あまりそうは思いませんでした。 ――なるほど(笑)。よく「人生最後の食事に何を食べたい」なんて質問がありますが、人生最後のコンサートを開くとしたらどの国がいいですか? それはちょっと究極すぎませんか(笑)。いろいろ考えちゃうなぁ……。日本、フランス、ドイツの3つのどれかだとは思います。今まで一番演奏してきているのは日本だし、生まれ育った国でもあるし、SNSでも一番フォロワーが多いのは日本人ですから、サポーターが多いという意味ではそういう国で最後を締めくくったほうがいいかなとは漠然と思ってしまいますね。でもそんな機会はあんまりすぐには来てほしくはないな(笑)。まだまだいろんな国で演奏したいですね。

一期一会の演奏を

©Eiichi Ikeda
――ピアノを弾いていて楽しい、幸せと感じるのはどんな時ですか? 基本的には私はピアノを弾くことが大好きな人間なので、日常ピアノの練習をしている時でも幸せだなぁと感じています。でも練習している時はどちらかというと「なんでもっと上手く弾けないんだろう」とか、そういうことに思いを巡らせていますね。 でもプロになって移動する時間が多くなってくると、おのずと練習時間は減ってきます。そうするとその限られた時間をどう使うか、というところをよく考えるようになって、「練習量ではなく練習の質を高めなければならないな」と意識するようになりました。特にヨーロッパ・日本間の移動日はまずピアノに触れられないので、1日半は弾けないし、コロナ禍なんて3日間ホテルで強制隔離とかありましたから。3日間ピアノを弾けないとすごいストレスなんですよ、イライラしてきちゃうんですよね。4日目にピアノを弾いた時はものすごく幸せでした。テーブルや膝の上でも練習することはありますが、音は出ませんし、ピアノの鍵盤のタッチとは違います。鍵盤に触れて音を出して、それが耳に音が届くことで生まれる幸せ……ピアノは何にも代えられないんだと思いましたね。 ――そんな福間さんがピアノを演奏するにあたり、一番大切にしていることは何ですか? その場のインスピレーションを大切にしています。一期一会、音楽って生ものといいますか、音を出したその瞬間から消えてしまうものなので、はかない瞬間、尊い瞬間といいますか、そういった部分が大きい。同じ時間、場所に、同じお客さまがいらして、同じプログラムを弾いたとしても、決して同じ演奏会にはならないと思うんですね。それを良きとして、弾きながらその場のインスピレーションを得るということもあります。そういう瞬間を大切にしていると、お客さんが非常に集中して聴いてくださっていることを感じる瞬間があるんですよね。だからなるべくそういった瞬間がたくさんあるように、自分自身が音楽に入り込むことが大切だと思います。ただ、没頭しすぎるというのも危険なのかなと感じていて、どこかしらで冷静さを保っていなければならないのかな、とも。その匙加減が非常に難しいのですが。 ――それは、演奏しながらもちょっと離れているところから自分を俯瞰しているイメージですか? 昔は没頭しすぎると熱が入りすぎてしまって「テンポが速い」とよく言われていたんです。自分の中ではよく歌っているつもりでも、息が上がった状態で歌っているから、普通の状態で聴いている人にとってはせかせかしている、みたいな。呼吸ができていないのに、次のフレーズに進んでいくように感じさせてしまう演奏が多かったんですよね。高校生の頃も留学してからも、何ならデビューしたての駆け出しの頃もそんな演奏をしていたと思うのですが、ようやくそういった匙加減が自分でつかめるようになってきました。何かしら客観視する部分を持ちながらも、心の中では奥深くから熱く歌う、ということを心がけています。 「心から歌う」というのは日本の先生がよくおっしゃっていたのですが、今でも本当によく考えます。歌うって人間の本能といいますか、心の奥底から歌うことは、人間の一番尊い行いとも言えるんじゃないかなと思っています。嘆きなのかもしれない、怒りかもしれない、喜びかもしれない、愛を歌っているのかもしれない……ですが、心の奥底から歌うというのは万人に響くものがあると思うので、そういったものを目指しています。

アスリートへの共感

――練習で気持ちが今ひとつ乗らない時はどうしますか? 今の時代、YouTubeなどでいろんな動画が上がっているので、“素晴らしい演奏に触れる”ということはよくやりますね。また、まったく違ったジャンルの動画から感動を得ることもあります。最近だとサッカーのワールドカップを見て、自分の年齢に近い選手・アスリートからものすごい刺激をもらい、自分も頑張らなきゃと思いました。
小学生の頃は野球も頑張っていたそう
対談やドキュメンタリーを見るのも好きですね。フィギュアスケートも大好きなので選手のドキュメンタリーをよく見ますが、そういうものから学んで、自分を奮い立たせたりしています。 ――今はちょうどフィギュアスケートがシーズンですね。チェックされていますか? リアルタイムでは見られない日が多いので、まず結果だけ見て、後から動画サイトや配信で演技を見ています。以前アイスショーでコラボさせていただいたり面識のある選手とかは、勝手に身内意識というか、遠い親戚のおじさんみたいな気分になってしまって……ショートプログラムで上手くいったあととか、フリーに向けてちゃんと寝られているのかソワソワしてしまいます(笑)。 ――昔からスポーツ選手に対するシンパシーはあったのですか。 そうですね。陸上部で短距離だったのですが、東京都の企画で代々木の国立競技場で世界陸上があって、そのプレイベントで小学生の400メートルリレーの大会に出場もしました。その時もアスリートの競技を目の当たりにして非常に感動したのを覚えています。野球も好きで、日本だけではなくアメリカのスタジアムでも観戦しましたした。ほかにもサッカーも好きです。 (取材・文 坂井孝著)

後編へ続く


福間 洸太朗(Fukuma Kotaro) 20歳でクリーヴランド国際コンクール日本人初の優勝およびショパン賞受賞。 パリ国立高等音楽院、ベルリン芸術大学、コモ湖国際ピアノアカデミーにて学ぶ。 これまでにカーネギーホール、リンカーン・センター、ウィグモア・ホール、ベルリン・コンツェルトハウス、サル・ガヴォー、サントリーホールなどでリサイタルを開催する他、クリーヴランド管弦楽団、モスクワ・フィルハーモニー管弦楽団、イスラエル・フィルハーモニー管弦楽団、フィンランド放送交響楽団、ドレスデン・フィルハーモニー管弦楽団、トーンキュンストラー管弦楽団、NHK交響楽団など国内外の著名オーケストラと多数共演、50曲以上のピアノ協奏曲を演奏してきた。2016年7月には故ネルソン・フレイレの代役として急遽、トゥールーズ・キャピトル国立管弦楽団定期演奏会において、トゥガン・ソヒエフの指揮でブラームスのピアノ協奏曲第2番を演奏し喝采を浴びた。また、フィギュア・スケートのステファン・ランビエルなどの一流スケーターとのコラボレーションや、パリにてパリ・オペラ座バレエ団のエトワール、マチュー・ガニオとも共演するなど幅広い活躍を展開。 CDは「バッハ・ピアノ・トランスクリプションズ」、「France Romance」、「ベートーヴェン・ソナタアルバム」(ナクソス)など、これまでに18枚をリリース。 そのほか、珍しいピアノ作品を取り上げる演奏会シリーズ『レア・ピアノミュージック』のプロデュースや、OTTAVA、ぶらあぼweb stationでの番組パーソナリティを務め、自身のYouTubeチャンネルでも、演奏動画、解説動画、ライブ配信などで幅広い世代から注目されている。多彩なレパートリーと表現力、コンセプチュアルなプログラム、また5か国語を操り国内外で活躍中。テレビ朝日系「徹子の部屋」や「題名のない音楽会」、NHK テレビ「クラシック音楽館」や「クラシック倶楽部」などメディア出演も多数。第39回日本ショパン協会賞受賞。 福間洸太朗 公式サイト 福間洸太朗 公式ファンクラブ

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