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音楽への探求から生まれた“情熱のピアニスト” 及川浩治(前編)

 “情熱のピアニスト”のふたつ名を持つピアニスト、及川浩治さん。聴衆の心をつかむその熱い演奏の土台には、努力と学びによって裏付けられた、幼いころからの確かな積み重ねがありました。全国で3万5千人以上の動員を記録した、クラシック音楽界の伝説とも言われるツアー『ショパンの旅』をはじめ、その音楽はまさに唯一無二の存在です。  「昭和の教育」とご本人がおっしゃるピアノとの出会いから、冷戦時代に留学したブルガリアでの貴重なお話まで、及川さんと音楽にまつわるさまざまなお話を伺いました。
©Ayumu Gombi

練習! 練習! 練習!!

―― ピアノを始めたきっかけを教えてください。 父が高校の音楽の先生で、家でもたくさんレッスンしていました。4歳の誕生日に、あの赤と黄色の「バイエルピアノ教則本」プレゼントとして渡されまして(笑)。どちらかというとスパルタで、子どもの頃はいつも父か母かどちらかが隣について練習する、みたいな感じでしたね。
©Ayumu Gombi
―― お母さまも音楽を学ばれていたのですか? 母は声楽科を出ているので、両親ともに音大卒です。ただ母は恥ずかしがってオペラのアリアなどは歌ってくれなくて、子守り歌しか聴いたことがないんです。なので本当に歌が上手なのか知らないんですが……(笑)。僕はとにかく練習しない子だったので、本当にずっと両親のどちらかがつきっきりで練習していました。 ―― 実際どれくらい練習されていたのでしょうか。 4歳から小学校1年生までは、早起きして朝練をして、それから幼稚園に行って、帰ってきてからまた練習してで、1日3時間以上は練習していました。 ―― その年齢で3時間ですか!? おかげさまで「ブルクミュラー25の練習曲」を2週間で終えたみたいです。その後も、ツェルニーだけでも110番やリトルピアニストや左手のための24の練習曲など、いちばん有名な30番・40番以外にもありとあらゆるものをやりましたね。いわゆる、昭和当時のオーソドックスな教わり方で練習していました。 それ以外にも父の教育方針で、遊んでいる時にも常にクラシックのレコードが流れていて、子どもの頃はクラシック以外の音楽やテレビの番組はすべてNGでした。
 

将来の夢は……“ピアニスト”になりたい?

小学校5年生の時に作文で「将来の夢」を書かなきゃいけない授業があって、なんとなく、適当に「ピアニストになりたい」と書きました。それを読んだ担任の先生が、同じく学校の先生である父に「浩治くんがピアニストになりたいそうですよ」と言ったらしいんです。話を聞いた父が、じゃあ東京の先生に習わせよう、ということになり、父の出身校でもある国立音楽大学で教鞭を執られていた児玉邦夫・幸子ご夫妻に師事することになりました。 ―― 小学生の時点から遠距離でレッスンに通うとは、やはり基礎基本の固め方がすばらしかったのだと思います。 幼稚園~小学校1年生の練習量が尋常じゃなかったのもありますが(笑)。常にクラシック音楽のレコードがかかっていたので、理屈はわからないけど自然にバッハとかモーツァルトとかベートーヴェンとか、クラシックのイントネーションが身についたんだろうなと思っています。 ―― その後もずっと、音大に入るまでクラシック一本だったのですか? やはり思春期で反抗期的なものが来て、練習をほとんどしなくなった時期があります。よく喧嘩しましたね……やめるとかやめないとかね。 「こんなに練習しないんだったらやめろ!」 「ならやめてやるわ!」 みたいな(笑)。 反抗心もあって、高校1年生の時にラグビー部に入りました。昭和の時代の運動部なのでめちゃくちゃ厳しくて、本当に格闘技みたいなもんで、そこでいろんな上下関係や精神的な部分も鍛えられました。

すべてを変えた、ブルガリアでのカルチャーショック

―― 国立音楽大学に入学したあと、ブルガリア国立ソフィア音楽院に留学されていますが、当時のお話をお伺いできますか?
高校2年生の頃、日本の自宅にて。ガネフ先生、奥さまのジュリア先生と
2年生の時にコンスタンティン・ガネフ先生のすばらしさに惹かれ、ブルガリアという国を選びました。当時のブルガリアはソビエト連邦の衛星国家で、いわゆる共産国でした。 留学してすぐに受けたコンクールが、当時のソビエト連邦でのコンクール。まだベルリンの壁も崩壊していなかったので、ドイツも東西に分かれていたころです。その時に東ドイツから受けに来ていた人が「自分にとって最後のコンクールだ」と話していました。最初は年齢制限の話かなと思っていたのですが、そうではなくて「国の代表で来ているから、結果が出なければ今後コンクールは受けさせてもらえない」という事実でした。 結果、入賞者は僕とブルガリア人以外、ロシア人がずらり。ドイツ人のピアニストの名前は無く……。それを知って、もうびっくりでした。 ―― 本人の意思の問題ではなく、許可が下りないということでしょうか。 そうです。それが当時の東ドイツでした。 日本にいると、コンクールを受けたいと思ったらなんでも受けられるじゃないですか。でも当時の東ドイツは国を挙げて、国の代表としてコンクールの場に来ている。その厳しさを知って、とにかく僕は何にもわかってないなと痛感しました。彼は命をかけてピアノを弾いていた。たとえやりたいと言っても、国がやらせてくれない……そういう状況だった。 それを知ってから、ピアノに向かう意識がガラリと変わりました。 ―― ブルガリアの音楽院はどのような教育方針でしたか? ヨーロッパのプロフェッサーは、暗譜で、しかもイン・テンポで弾けていなければレッスンをしてくれません。初めて見せる曲だからとか関係なく、同じ曲を2週続けては絶対にレッスンしてくれないんですよ。「それ先週やったじゃん」って言われるんです。 だからみんな最初に“この1年間に弾く曲”を全部決めるのですが、「それを1年間で全部やりきったら国際コンクールを受けられるスタート地点に立てますよ」という目安のような量でした。
2015年、ブルガリア公演時にガネフ先生と再会し、うれしそうな及川さん
―― 同じ曲を二度は見てもらえない……壮絶な練習量になりますね。 日本にいた時はあんなに練習しない生徒でしたが、これはもうとにかく練習しなきゃダメだなと気がついて、門下生の中で一番練習するようになりましたね。先のソビエト連邦でのコンクールのこともあって、本当に朝から晩まで、1日10時間以上は練習していたと思います。 ―― 本場の音楽教育を目の当たりにして、きっと及川さんの中でも意識の変化があったのではないでしょうか。 自分で4年間の目標を立てました。1年目は先生が言っていることを理解する。音楽的な解釈だけでは無く、基礎となるブルガリア語の習得も含めて、です。2年目は、先生に言われたことをできるようになる。3年目は、先生に言われる前にできるようになる。4年目は、もう先生に言われずとも自由になんでもできるようになる、という目標でした。 ―― それらをきちんと達成できれば、ピアニストと名乗るにふさわしい、と。 ピアニストになるための決意というよりは、作品を演奏するにあたって、作曲家がどんなことを考えて、どういう意味でこの楽譜や音符を書いて、なぜこの曲が成り立っているのか、ということをもっと知ってから日本に帰りたいと思って勉強していました。 少なくとも僕が知る限り、日本でこういったレッスンをする先生や学校を知らなかったので、こういうブルガリア風のレッスンができる人間になって帰りたいなと思っていました。なので、実はプロになりたいとかピアニストになりたいというより、音楽を理解したい、知って帰りたいなと考えていました。 ―― それだけの練習量を確保し、技術を身に着けるために、当時どのようなピアノを使用されていたのか教えていただけますか。 日本は国産のピアノメーカーが複数あったり、公立の小学校にもグランドピアノがあったりと、楽器を弾く環境にとても恵まれていますよね。それこそ音大のピアノ科に入る人たちは、自宅にグランドピアノを持っている人が多いと思いますが、ブルガリアではほとんどみんなアップライトで練習しています。そもそもブルガリアには国産ピアノが存在しないので、大学も外国製のピアノです。ほとんどがベーゼンドルファーで、たまにホールでスタインウェイがあったかな。 ふだんの練習もボロボロのアップライトピアノでやるわけですが、それでもスタインウェイのフルコンサートピアノで弾いた時と同じことを要求されます。メカニズム的には不可能なんだけど、やれ、と先生が言うわけです。でもこれがすごくよかったんだと思います。ホールで弾くときのスタインウェイが、どれだけすばらしいか。涙が出るほどすばらしい楽器だって実感できる。感動が半端じゃないですし、自分が表現したいことやニュアンスが、ボロボロのアップライトに比べたら簡単に伝わります。 こういったことは日本にいたらなかなか体験できないのではないでしょうか。当時の共産国ならではの音楽教育を受けられたということが、僕にとって貴重な宝物だなぁと思いますね。 (取材・文・構成 浅井彩)

後編へ続く


及川 浩治(Oikawa Koji) 4才からピアノを始める。1984年ヴィオッティ・ヴァルセイジア国際音楽コンクールで第1位受賞。1985年、国立音楽大学に入学。翌1986年にブルガリア国立ソフィア音楽院に留学。1987年にアレクシス・ワイセンベルクの公開セミナーに参加し、ワイセンベルク本人の意向により設けられた最優秀特別賞を受賞、練習用のグランドピアノを授与された。1990年にマルサラ国際音楽コンクールにおいて第1位受賞。また同年、第12回ショパン国際ピアノコンクールにおいて最優秀演奏賞(Honourable mention)を受賞。1992年、日本国際音楽コンクールにおいて第2位を受賞している。 1995年にサントリーホールにてデビュー・リサイタルを行い、同年ラムルー管弦楽団定期演奏会(佐渡裕指揮、サル・プレイエル)に招かれパリ・デビューを飾る。1997年よりミュージック・シェアリング(旧みどり教育財団)による「レクチャー・コンサート」でヴァイオリニスト五嶋みどりと全国各地の小学校、養護学校などで演奏。1998年、札幌PMF(パシフィック・ミュージック・フェスティバル)に出演。1999年のショパン没後150年には、「ショパンの旅」というタイトルのコンサート・ツアーを行ない3万5千人をも動員する ショパン・イヤー最大規模のイベントとなった。2002年6月ワイマール州立歌劇場管弦楽団の日本ツアーソリスト、2003年7月にはPMFオーケストラのソリストとして、2004年には佐渡裕ヤング・ピープルズ・コンサートのゲストとして、全国各地で演奏。2005年サントリーホールで行なわれた「デビュー10周年記念コンサート」は満席となり大成功を収め、2008年~2011年には東京・大阪での同時プロジェクト「及川浩治10大協奏曲シリーズ」に取り組むなど人気・実力共に日本を代表するピアニストである。 2013年モスクワ・フィルハーモニー交響楽団、2014年ベルリン交響楽団、2015年ロシア国立交響楽団の各来日公演にてソリストとしてピアノ協奏曲を共演。また2015年2月にテレビ朝日系列「題名のない音楽会」に出演し、ラフマニノフ「ピアノ協奏曲第3番」を熱演したことは記憶に新しい。 ダイナミックな中に繊細さをも併せ持ち、内面にダイレクトに訴えかける及川の演奏は多くの絶賛の声とともに幅広い層の共感を得ている。児玉邦夫・幸子、吉本美南子、コンスタンティン・ガネフ、ジュリア・ガネヴァ、ジャン=マルク・ルイサダの各氏に師事。現在、宮城学院女子大学音楽科特任教授。 CDはショパン、ベートーヴェン、リスト、ラフマニノフなどの作品集をリリースし、いずれも高い評価を受けており、『ベートーヴェン:悲愴、熱情、ワルトシュタイン』と『ショパン:バラード』は「レコード芸術」誌特選盤に選出されている。 及川浩治 公式サイト

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