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助っ人から始まった音楽人生 バス・バリトン平野和

 日本人離れした発声・声量・体格を活かしウィーンを拠点に欧州で活躍するバス・バリトン、平野和(ひらの・やすし)さん。いま活躍が最も注目される歌手のひとりですが、音楽人生の始まりは千葉・君津から!? 輝かしい活躍の数々はもちろん、クラシック音楽の世界に足を踏み入れたきっかけや、ウィーンの音楽教育事情、そしてドイツリート(※ドイツ語の歌詞に曲をつける形で作曲された作品)を愛するその心など、さまざまな角度からお話を伺いました。
©武藤章
―― 舞台映えする容姿に、日本人離れした深いバリトンボイス、国際色豊かな印象ですが、ご出身は千葉県なのだとか。 幼少期を横浜、中学2年生まで相模原、その後、父の仕事の関係で高校3年生までを千葉県君津市で過ごしました。声楽の道を進むようになったきっかけが君津市の時代なので、君津出身とアナウンスされることが多いです。 歌との出会いはユニークなもので、中学生当時、私は野球部だったのですが3年生の時、野球部が夏の大会に早々に負けてしまいまして、当時の音楽の先生から『野球で負けたんだったら、合唱部は男子部員が少ないから手伝ってほしい』と言われ、助っ人としてNHK中学合唱コンクールの千葉県予選に参加しました。これが歌に出会ったきっかけだったんです。なんとその音楽の先生は現在、君津市の市長になられました。
―― 千葉で育った環境が今に影響していることは? やはり恩師との出会いです。歌の世界に出会ったのが、中学時代に野球部から助っ人で参加した合唱部での日々。そして、声楽の道で大学進学することを後押ししてくれたのは、高校時代の音楽の先生でした。君津市に滞在したのは実質4年半と短いのですが、自分の将来を決定づける運命的な出会いが重なっているという点で、歌手としての原点は君津市にあるのだなと感じています。 ―― その野球部で鍛えたことは、今の声楽家としての活躍に何か影響していますか? 残念ながら野球選手としての才能はありませんでした(笑)。スポーツは“筋書きのないドラマ”と言われるように、局面で戦況がまったく変わり、その都度臨機応変な対応力が求められると思うのです。自分には潜在的に、スポーツで必要とされる瞬発力が備わっていなかったので、メンタル的にも厳しかったです。守備位置にいても、頼むから自分の所にボールが飛んで来るなよと念じて守っていました(笑)。野球は辞めてしまいましたが今もスポーツ観戦は大好きです。先日も侍ジャパンの活躍でWBCが盛り上がりましたね! 自分が得意とするのはどちらかというと持久系で、マラソンや縄跳びなどひとつのことを黙々とやり続けることは得意でした。肺活量には自信があるので、声楽家には向いていると思います。 もちろん舞台に立てばさまざまなハプニングはありますが、基本的には筋書きが決まっているオペラの世界の方が合っていると、歌を始めてあらためて思いました。 ―― 台本や楽譜に向かう時間は、その持久力が必要ですよね。 オペラで一本の役を勉強する上で、持久力は必須の要素かもしれません。オペラは細部まで丁寧に作る必要のある、言い換えれば伝統工芸に近い分野だと思っています。例えば、歌を聴かせる“アリア”と、お話を紡いでいく上で重要なセリフの役割となる“レチタティーヴォ”がありますが、そのレチタティーヴォに筋書きの上で重要な情報がすべて詰まっているのです。余談ですが最初に購入したオペラのCDはモーツァルトの《フィガロの結婚》でした。初めてレチタティーヴォを聴いた時にイタリア語の単語の多さに驚き、「こんなものを暗譜して歌うなんて不可能だな」と震えました(笑)。 イタリア語の膨大な量のテキストの意味をひとつひとつ調べ、何度も繰り返し読んで理解し、落とし込んでいく作業……それはまさに持久力と忍耐がなくては、です。 ―― 日本人がウィーン・フォルクスオーパーの専属歌手となるのは大変だったのではないかと思います。おもしろいエピソードや驚いたことなどがありましたら教えてください。 当時、ドイツのデュッセルドルフの劇場にあるオペラ研修所で研修生をしていた時に、ヨーロッパのエージェントに言われるがまま、フォルクスオーパーのオーディションを受けに行ったんです。ダメ元で受けてみようと。そんな軽い気持ちが功を奏したのか、かえって肩の力の抜けた状態でオーディションに臨めたのが良かったようで、なんと専属歌手のオファーが舞い込んできました。与えられる役も研修生に比べ大きくなり、もちろん経済的にも安定します。歌手としてのグレードが一段階上がることを意味します。幸い、研修生として在籍していたデュッセルドルフの劇場は寛大に対処してくださり、翌年から晴れてフォルクスオーパーの専属歌手となりました。
 
―― 8月のリサイタルは、奥さまとの共演ですか? はい。共演するピアニストは妻の小百合です。彼女はウィーン国立音楽大学で教鞭を執っています。ウィーンに来た当初、週3~4回ほどオペラを観るために劇場に通っていたのですが、彼女とはウィーン国立歌劇場の立ち見席で出会いました。当時はあまりオペラに詳しくなかったようで、筋書きのことや歌手のことなど質問が多く、好奇心の強い人だな……と思ったのを覚えています。一方の私は、日芸時代に大学の視聴覚室に入り浸ってレーザーディスクでオペラを見まくり、NHK BSで週末に放送されるオペラ公演を必ず録画して絶対に見逃さないオペラマニア(笑)でしたので、小百合からの質問に応えているうちに親しくなりました。言うなれば、オペラが紡いだ出会いです。 ちなみに、ウィーンに来てオペラの知識を積み上げた小百合は、今や音大での仕事の傍らアン・デア・ウィーン劇場などのオペラ・プロダクションで、コレペティとしてディアナ・ダムラウなど超一流歌手たちと一緒に仕事をしています。人生何が起こるか、本当に分からないですね。 ―― 新型コロナウイルス流行期は大変でしたか? オーストリアは欧州各国の中でもいち早くロックダウン政策を実施した国でした。そのため、当時在籍していたウィーン・フォルクスオーパーの公演は即中止が決定した上、リハーサルなども含めたすべての活動がストップしました。大変なことになったと心配しましたが、ロックダウンは国が決めた政策ですから補償体制もすぐに整えられ、活動の場がない状態でも生活が保障されたことは非常にありがたかったです。当時はかなり厳しい外出制限もあり、会社員として働く方たちは日本と同じようにリモートで仕事をしていました。 ところが私たちオペラ歌手の場合、リモートでできる仕事はほとんどなかったため、自然と、家族と一緒に過ごす時間が増えました。子どもたちの勉強をサポートしたり、習っているピアノやヴァイオリンの練習に付き合ったり……と、日頃なかなか持つことのできない家族とのひとときは貴重で、幸せな時間でした。 ―― オーストリアの生活では、音楽以外で何か楽しんでいらっしゃることはありますか? 2019年から始めたTwitterでは、一時期サッカーのことばかり呟いていました(笑)。昔から清水エスパルスを応援しているのですが、2019年、北川航也選手が清水エスパルスからウィーンの地元クラブ「SKラピード」に移籍したんです。この移籍はウィーンでも大きな話題になり、連日報道されていました。その新聞記事の切り抜きなどをツイートしていたら、日本の清水エスパルス・サポーターがいち早く反応してくれて、多い日には1日100人を超える人が私のアカウントをフォローしてくれたこともありました。フォロワーさんは、8割くらいが静岡在住の方だと思います(笑)。 クラシックに馴染みのない方が、同じサッカーチームを応援するサポーター同士として交流を持ち、少しでも私の活動に興味を持ってくれたら、すばらしい相乗効果が生まれると思います。実際に、何人かのエスパルス・サポーターの方たちは、私が出演したコンサートに足を運んでくださったこともありました。 ちなみに、私が清水エスパルスを応援していたもっとも大きな理由は、中学時代のクラスメイトで親友の戸田和幸くんが、プロになり最初に入団したのが清水エスパルスだったんです。戸田くんは日本代表でも活躍する選手になり、2002年日韓W杯では赤いモヒカン姿で全試合フル出場しました。その勇姿は今でも脳裏に焼き付いています。当時、戸田くんが出場する試合で君が代を歌うという大きな夢があったのですが、現役を引退してしまい、その夢は残念ながら果たすことができませんでした。しかし今シーズンからJ3「SC相模原」の戸田監督として新たなキャリアをスタートしたので、今度は彼の指揮する試合で君が代を歌うという、私にとっての新しい夢ができました! ―― 声楽家として、普段から気をつけていること、心がけていることなどがありましたら教えてください。
早寝早起き、規則正しい生活ということでしょうか。……というのは、子どもたちを学校に送り出すためなのですが(笑)。子どもたちが通う小学校は日本に比べて始業時間が早く、8時には授業が始まるので、早起きをして身支度、朝食の準備をする生活が定着しました。 ―― 今年上半期はびわ湖ホール《ニュルンベルクのマイスタージンガー》、大阪フィル・群響《ヴェルディ:レクイエム》、佐渡裕さんプロデュース《ドン・ジョバンニ》など日本での活躍も目覚ましいですが、拠点は変わらずウィーンでしょうか? 2008年から14年間、ウィーン・フォルクスオーパーで専属歌手として在籍したのですが、今シーズンからフリーの歌手として活動しています。フリーといっても、今シーズンはおよそ6か月フォルクスオーパーの演目に出演し、残りの期間はヨーロッパや日本で劇場以外の公演に出演しています。以前に比べ自由な時間が増えたので、日本でも演奏の場がさらに増えればと望んでおります。 一方で、妻の小百合はウィーンの音大で仕事がありますし、子どもたちもウィーンで学業に励んでいますので、拠点はウィーンに置き、ヨーロッパ各地や日本を行き来しています。 ―― 今後共演してみたいアーティストはいますか? もちろん、たくさんいますね。自分にとって、何が一番のモチベーションになるかと考えた時、やはり良い共演者と演奏するということに勝るものはありません。今後はワーグナー作品を自分のレパートリーにしていきたいので、夢はバイロイト音楽祭に出演し、クリスティアン・ティーレマンと共演することでしょうか。 またジャンルは違うのですが、以前から親交のあるロックバンド「くるり」の岸田繁さんとはいつか共演したいと思っています。岸田さんが本格的な2つの交響曲を作曲されたことは有名ですが、きっといつかオペラも作曲してほしい! 岸田さんの作品に出演したい! と、いつも岸田さんにお願いしています。 ―― 日本での学びとウィーンでの学び、大きく違うことがありましたか? 日本大学芸術学部の音楽学科を卒業後、すぐにウィーンに渡りウィーン国立音楽大学の声楽学科に入学しました。まず驚いたのが、歌のレッスンの多さです。週に30分しかなかった歌のレッスンが、ウィーンでは2時間半に増えました。日本に比べて5倍もの長さです。またレッスン以外の授業も多彩で、フェンシングや歴史的なダンスの演習、呼吸法やパントマイムなど、舞台に立つ上で必要だとされる要素を習得できるユニークな授業が多かったです。 ウィーンではいかに多くの“プロの歌手や演奏家”を輩出するかが、教師に対する評価の基準になっているのではないかという気がします。さまざまな点で、日本との違いを実感することが多かったです。
©武藤章
―― 平野さんの活躍にあこがれ、これからオペラの道を目指す後進にアドバイスをお願いします。 振り返ってみると、とてもラッキーな出会いや運の積み重ねばかりでした。その出会いや運に後押しされ、海外へ飛び出し、こうしてプロのオペラ歌手として生活していくことができるようになりました。今振り返ってみると、人よりも努力した時間が大幅に長かったというわけではなかったし、海外を拠点とする絶好のメンタルを持ち合わせていたというわけでもなかったように思います。 何が良かったか、と他の人との違いを考えてみると、「自分は海外の劇場で歌える特別な人間なのだ」と素直に信じ込めたことだと思います。若いうちは多少の勘違いをして突っ走って、それで失敗をしても、その後いくらでも人生をやり直すことができると信じています。だから若い方には、一歩を踏み出して挑戦することを恐れないで欲しいです。 ―― 2007年にオーストリア・グラーツ歌劇場「魔弾の射手」でデビューされ、2023年は活動15年の節目。今年1月には「シューベルト:冬の旅」全曲のCDも発売され意欲的に活動されておりますが、今回の公演「欧州デビュー15周年記念 平野 和 バス・バリトン・リサイタル」についての意気込みを教えてください。 早いもので15周年ですね。プロとしてオーストリアで15年間培ってきたものをすべて出しきるぞ! というのが今回のリサイタルへの思いです。歌い始めたばかりの頃に出会った曲、人生の節目を彩った思い出の曲、さまざまな作品をプログラムに散りばめました。そして、歌手として目指す理想像のために必要な作品にも挑戦します。今回のリサイタルは、ドイツ語で歌う作品「ドイツリート」でプログラムを構成しました。 ドイツリートのコンサートは、以前に比べると減少傾向にあると感じています。それは日本だけでなくヨーロッパでも同じです。ドイツリートは戦後の日本で、一般の人たちも口ずさめるような人気コンテンツでした。しかし時代の移り変わりと共に愛好家が減っているのが現状で、嘆かわしい思いです。ドイツリートの世界がどのように現代の聴衆にも受け入れてもらえるか、魅力を存分に知る自分が先頭に立って伝えていかなければならない、そんな使命を強く感じています。 ―― 最後にららら♪クラブの読者にメッセージをお願いします。 今回のリサイタルは15周年の感謝を込め、15という数字にかけて、1,500円のチケットもご用意しました。歌を勉強している学生さんや、クラシックのコンサートに足を運んだことのない方に、まずは気軽に会場を訪れて演奏に触れていただければと願って「お試し価格」として設定しました。 マイクを通さない声が会場に響き渡る時の空気の振動、ピアノと一体になって繰り広げられる音世界を、一緒に体感していただきたいです。 ステージと客席の特別な“一期一会の出会い”を、ぜひ一緒に楽しみましょう! ――ありがとうございました。リサイタルの成功をご祈念申し上げます。 (取材・文 下司愉宇起)

今後の公演情報




欧州デビュー15周年記念
平野 和 バス・バリトン・リサイタル

日時 8月3日(木) 19:00開演(18:20開場)
会場 渋谷区文化総合センター大和田 さくらホール
出演 [バス・バリトン]平野和 [ピアノ]平野小百合
プログラム ベートーヴェン:《6つの歌》Op.75より〈蚤の歌〉 レーヴェ:《3つのバラード》Op.1より〈魔王〉、詩人トム Op.135a、海を渡るオーディン Op.118 シューベルト:《冬の旅》D.911より〈菩提樹〉、魔王 D.328、野ばら D.257、トゥーレの王様 D.367 シューマン:《リーダークライス》Op.39より〈森の対話〉、《ロマンスとバラード集》Op.49より〈2人の擲弾兵〉 ブラームス:バスのための4つの厳粛な歌 Op.121
チケット 全席指定:S席5,000円 A席1,500円
詳細 こちらから
お問い合わせ ジャパン・アーツぴあ TEL:0570-00-1212

平野 和(Yasushi Hirano) 今、その活躍が最も注目されるバス・バリトンのひとり。ウィーン在住。 日本大学芸術学部音楽学科同大学を首席で卒業。ウィーン国立音楽大学声楽科修了、同大学大学院オペラ科を首席で卒業。末芳枝、R. ハンスマン、R. ホルに師事。2004年ドイツ・ラインスベルク室内歌劇場国際コンクールで入賞、同主催の音楽祭でヘンデル「オットーネ」エミレーノ役に抜擢された。 2007/2008シーズンよりオーストリア・グラーツ歌劇場と専属歌手として契約。『魔弾の射手』隠者でセンセーショナルなデビューを飾った。2008/09シーズンから2021/2022シーズンまでウィーン・フォルクスオーパーの専属歌手として活躍。『フィガロの結婚』タイトルロール、『魔笛』ザラストロ、『ロメオとジュリエット』ロレンス神父、『ルサルカ』水の精など、在籍14シーズンで約500公演に出演した。現在もフォルクスオーパーのゲストとして出演多数。ブレゲンツ音楽祭の湖上オペラには『トゥーランドット』『カルメン』に4年連続出演を果たしている。コンサート歌手としてもJ. S. バッハ、モーツァルトなどのミサ曲、カンタータ、オラトリオのソリストを数多く務め、ウィーン楽友協会、ベルリン・フィルハーモニーなど主要な会場で客演している。2008、2011年にはステュリアルテ音楽祭で故N.アーノンクールと共演。ヴェルディ生誕200周年(2013)には「アルツィーラ」(G. クーン指揮・演奏会形式)が映像化され、世界中で放映された。この他ザルツブルグ祝祭劇場、ウィーン楽友協会、ベルリン・フィルハーモニーなどで著名指揮者の下ソリストを務めた。日本では新国立劇場『ドン・ジョヴァンニ』レポレッロ、『アイーダ』エジプト王、『影のない女』冥界の使者のほか、兵庫県立芸術文化センター『ラ・ボエーム』、びわ湖ホール『ニュルンベルクのマイスタージンガー』、佐渡裕指揮新日本フィルハーモニー交響楽団「第九」、飯森範親指揮日本センチュリー交響楽団「ドイツ・レクイエム」、山形交響楽団「第九」等に出演。またウィーン・シュトラウス・フェスティヴァル・オーケストラのソリストとして日本ツアーにも参加している。 2023/2024シーズンはフォルクスオーパー『魔笛』などに出演を控えている。日本国内では兵庫県立芸術文化センター『ドン・ジョヴァンニ』、尾高忠明指揮大阪フィルハーモニー交響楽団、飯森範親指揮群馬交響楽団の定期演奏会などに出演予定のほか、デビュー15周年記念リサイタルをさくらホール(渋谷区文化総合センター大和田)で予定している。CDはシューベルト「冬の旅」を日本アコースティックレコーズからリリース。 平野和オフィシャル・Twitter

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