オペラ・シーンの中心で活躍するソプラノ歌手、森谷真理。彼女の武器は、ドラマを孕む声、幅広い音域、そして主人公に魂を吹き込む演技だ。どのようにして彼女はオペラ歌手の道を選び、日本を代表するアーティストになったのか。そこには決してくじけない心と、不断の努力があった。
東京デビューを飾った夜の女王から魔性の女ルルへ
――森谷さんの舞台に初めて接したのは、2015年に東京文化会館で聴いたモーツァルト《魔笛》の夜の女王役でした。超高音(ハイF)を驚くべき正確さで連打するテクニック、声の迫力、そして強い感情表現に驚愕しました。これは当時、ヨーロッパの歌劇場を中心に歌っていた森谷さんが最初に東京で大きく注目を集めた公演だったと思います。その後、日本で数々の主役を歌い、今年の7月にはベルク《ルル》に主演される予定でしたが、この公演は来年に延期になりました。その代わりにコロナ後の初めてのオペラ・ガラ・コンサートとして7月に東京二期会が開催した《希望よ、来たれ!》では、森谷さんは《ルル》からの曲を歌われました。12音技法で書かれた、役柄としても魔性の女という難しい役柄ですが、その素晴らしい歌唱には戦慄を覚えました。来年が待ち遠しいです。 《ルル》が延期と聞いた時、中止ではなく来年に延期ということで実はあまり悲しいとは思いませんでした。どちらかというと、もっと準備ができてありがたいなと(笑)。本来ならば公演までに万全に準備をするのが当然ですが、やはりルルは他の役に比べてものすごく難しくて。音楽を身体に入れ、消化して、自分のものにするというのは結構時間がかかる作業なのです。例えば今、日生劇場のドニゼッティ《ルチア》の稽古中ですが、この役を私が前回歌ったのは10年も前のことです。でも10年ぶりでも歌い始めてみると、どこか身体に入っているものがあって。それは人前で演奏してようやく得られるものなんです。 ――コンサートは話題の沖澤のどかさんの指揮。ダンスの中村蓉さんとのコラボレーションが舞台を見ているようでした。 沖澤さんは初めてお会いしましたが、とても親身になってこちらのことを考えてくださる方でした。ルルのアリアは2分半くらいと短いのですが、リハーサルにはかなり時間をかけました。最初にまず個人的にダンスの中村さんとお会いして、お互い、この曲をどう思っているか意見交換をしました。リハーサルでは彼女が作った振り付けを試しながら歌って。楽しかったです。このコンサートがあって一年後に《ルル》全曲を演じるのは、その機会が無かった場合とはだいぶ違うものになると思います。 A. ベルク《ルル》よりルルのリート「私のために人が自殺したって」 (動画の下のキャプションの49分24秒のところから飛べるようになっています。)ルル:森谷真理 ダンス:中村蓉 指揮:沖澤のどか 演奏:東京交響楽団 ――それにしても《ルル》のような音楽は、とても覚えにくいのではないでしょうか。どのように記憶なさるんですか? 私も秘訣を人に聞きたいくらいです(笑)。多分私は人より譜読みが早く、歌えるようになるのも早いんですね。でも暗譜にはすごく時間がかかります。《ルル》の場合は、彼女のキャラクターを理解することよりも、あの音楽を理解し切れるかどうかが大変です。例えばモーツァルトのように、音楽の流れが次はここに行くなとか、調性的にこのあたりに落ち着くだろう、というのが明確ではありません。 しかも、オペラはその作曲家の作品を初めて歌う時が一番大変だと思うのです。これはリヒャルト・シュトラウスのオペラを歌った時に感じたのですが、私が初めてプロの歌手として仕事をいただいたのは、ニューヨークのメトロポリタン歌劇場での《ナクソス島のアリアドネ》ナヤーデ役のカバーだったんです。稽古でオペラを毎日聴いていると、やはりその作曲家の音楽に慣れていきますから。その後、この作品のツェルビネッタ役を演じた時には譜読みもかなり楽になり、その後の《ばらの騎士》のゾフィー役、元帥夫人役を歌う時にも助けになりました。ただ元帥夫人役は、ゾフィーに比べて調性感をつかむのが難しかった。ですからそれで反省して、《サロメ》を歌った時には、早め早めに準備を、と思って始めたのですが、やはりそれなりに難産だったのは覚えています(笑)。オペラ歌手の役作り
――そのような音楽的なことに加えて、オペラは演劇的な役作りも重要です。《ルル》もそうですし、これまで拝見した舞台でも感情表現がとても豊かだと思いますが、舞台では役がご自分に乗り移る感覚なのでしょうか?それとも観察して演じているのですか? 今、自分がこう感じている、というものがあり、それをお伝えしているという感じでしょうか。例えば夜の女王の怒りであったり。悲しみだったり。歌わなければなりませんからコントロールは常に必要ですが。その時の感情や気分は、音楽からのインスピレーションも大きいです。テンポでも変わりますし、会場にもよるし、一緒に演じている共演者の反応でも変わってきます。でも、乗り移るということはないですね(笑)。 ――楽屋に帰ってもルルのまま、とかはなさそうですね。 休憩時間はちゃんと私になっていると思います(笑)。ムードに影響されるということはあるかもしれませんが。 ――仕草などが残ってしまったり? それはありました。《蝶々夫人》の時です。東京二期会で最初に《蝶々夫人》を演じたときのことです。栗山昌良先生の演出でした。稽古の時から所作にものすごく気をつけていたんです。着物で生活している人の歩き方、身振りなどをきちっとやるために。それまで私はそういう環境にはいませんでしたし、加えて海外生活が長かったこともありました。日本でも今では、普通の生活は西洋式ですよね。手の形、肘や膝の動き、首の角度、例えば肯くという動作一つをとっても、着物で美しい動作は違います。その訓練があまりにも足りていなかったので相当頑張って勉強し、電車のプラットホームでも着物の足運びを練習していたくらいです。周りからは怪しい人だと見られていたと思います(笑)。幅広くなんでも歌える声
――森谷さんの声楽家としての大きな特徴として、レパートリーがとても広いということがあると思います。超高音のコロラトゥーラの役から、かなりドラマチックな役まで。例えばワーグナーもリヒャルト・シュトラウスも多く歌っていらっしゃいます。もちろんイタリア・オペラの王道レパートリーも。フランスものでは《ラクメ》やドビュッシーの歌曲を歌われますね。役を選ぶときのポイントはどこにありますか? あまり選んでいないんです。来たものを歌っている感じでしょうか。自分の声種と違うものはお引き受けしないですが。メゾソプラノの役は歌いませんし、例えば、ワーグナー《トリスタンとイゾルデ》のイゾルデ役を、というオファーをいただいてもお受けしないと思います。 実は、声楽家の声の種類を分ける分類法がいくつかあるのですが、そこに自分を組み入れるのが難しい部分があるのです。(ソプラノ中で一番重い)ドラマチックではない、(声が軽く細い)スーブレットやレッジェーロでもない。その中間にあるドラマチック・コロラトゥーラもしくはリリックなのでしょうが、長いこと迷っていました。 音域的に歌えないという役はあまりなかったのですが、声の響き方が違ってきたり、役の解釈だけでなく様々な要素があるので一概には決められません。夜の女王役はちょっと飛び抜けていましたが、それ以外の役でも、できそうな役は全部歌っていました。ワーグナーを歌うにしても、ワーグナーの何の役を歌うかで変わってきます。皆さんが「これは合わない」とおっしゃる役にも、歌ってみたら意外に大丈夫だったものもあります。よく言われる重い役、軽い役、という表現もその中に様々なニュアンスがあるんです。音域に関しても、一音だけ高いのか、それともずっと高い音域で歌い続けるのか、など。 ――森谷さんはソプラノとしては、音色が「暗い」、という言葉が正しいのかは良くわかりませんが、ドラマチックな響きを持っていらっしゃると思うんです。音色は生まれつきですか?ご自分のセンスで作り上げるものですか? 音色をわざわざ暗くしようと思ったことはないです。ある程度は自分が好きな声を出しているのかなとは思いますけれど。生来の音色はありますから、それを使っていろいろな表現をしていくということでしょうか。ちょっと暗め、というのは二十代半ばごろから言われることがありましたね。 ――そのような声に関することを含め、これまでのご経験を生かして声楽を教えたいというお気持ちはありますか? 自分が実際に歌って分かったことも多いので、そういう意味で、この経験を誰かに伝えたいという気持ちはありますね。もうすでに教えているんですよ。プライヴェートでも教えていますし、非常勤で洗足学園音楽大学にときどき顔を出しています。やはり大学で教えたいですね。私自身も今でも学んでいますし、私が持っている知識が絶対だとも思いませんが、現場で気がついたことは多いので誰かに伝えられると嬉しいな、というのはあります。母に導かれたオペラ歌手への道
――森谷さんはお母様も声楽家でいらしたそうですが、オペラ歌手になると決めたのはその影響があったからでしょうか? 5歳の時から中学3年生までピアノを習っていました。でも反抗期が訪れ一旦ピアノをやめたんです。一般大学を目指す高校に入りたいからと。これは私の性格だと思うのですが、自分で決めたことは絶対やり抜くのですが、無理矢理やらされていると感じるのがどうしてもダメだったんです。ピアノは嫌いではなかったですし、音楽も嫌いではなかった。でもピアノの前に何時間も座っているのが苦痛だったこともありました。ただ、一回反抗したから気が済んだのか、高校入学後に母に「ピアノをもう一回やってみたら?」と言われ再開します。 ――高校生の時点では将来の夢は何でしたか? 大学受験に熱心な高校だったので、二年生になる時に文系と理系にコースが分かれます。そのころ興味があった職業は、考古学者と精神科医。それから獣医でした。ただ私、本当に虫が苦手なんです…。それでは獣医は無理ですよね。考古学者は世界史が大好きだったので興味を持ったのですが、これもやはり野外の活動ですし、歴史は自分で本を読めばそれでいいのではないかな、と考えました。残るは精神科医ですが、私はメンタルが不安定な方だったので、よく考えたら人をカウンセリングできる側の人間ではない、と。 そしてある日、考えあぐねて体育館のそばの廊下を歩いていた時のことです。もしかしたら音楽をやったら自分は人として一番良い状態になるのではないかな、という気がしたんです。やはり母のおかげで、選択肢として考えられるくらいに音楽は身近にあったんですね。この世界には、音楽を聴いて感動して歌手になる方、もしくは歌が歌いたい!と自分から飛び込む方も多いですが、私の場合はそのような出会いではありませんでした。職業として歌を考えることができたのです。その後の道は辛かったですけれど。でも辛いということは、悪いということではありません。あのときの私の思いつきは良かったのだと今でも思っています。 ――廊下でひらめいたのは正しかったと?3> そうですね。その日、家に帰って母に「音大に行くことにする」と言いました。母は「じゃあ、決めたんだったら辞めないでね」って。そう言われたのを今でも覚えています。 そこからは声楽家の親を持つ強みがありました。母は先生を探してくれ、大学、大学院、そして留学までを視野に入れて。ニューヨークに行ったのも母の大学時代の同級生の方の紹介でした。そしてニューヨークでマネス音楽院に通っているうちに、メトロポリタン歌劇場の若い歌手のためのコンペティションを見つけて…。その後のオペラ歌手としての活動も、どちらかというといつも自分が渦中に放り込まれている、という気分でずっと来ていました。自分でしっかり意志を持って選び始めた手応えを感じたのは、今から4年くらい前のことです。 マネス音楽院卒業時
――4年前というと、森谷さんが活動の拠点を日本に移した頃ですか?
《ばらの騎士》
オペラ歌手の日常生活
――オペラ歌手の一日はどのようなものでしょうか?趣味やその他のことに割ける自由な時間はありますか? 最近は色々なことに追われていて、そういう時間はないですね。合間の10分、5分などにちらっと携帯でゲームをやったり、漫画を読んだりすることはあります。 ――音楽家には料理が趣味の方が多いように思います。お仕事柄、旅行も多いと思いますが、美味しいものを食べ歩いたりはありますか? 美味しいものを食べるのは好きです。自分でも料理は作りますが、作らなくてもいいんです。どちらかというと作ってもらったものを食べる方が好きですね(笑)。私、盛り付けがとても下手なんです。味付けはともかく。性格が雑すぎて料理にはあまり向かないみたいです。歌手にはこだわる人が多くてみんなすごいんですけれど。私は全然です。人前で歌うということ
――ところで、舞台に出るということについてもう少し教えてください。昨年、森谷さんは天皇陛下御即位を祝う国民祭典で「君が代」を歌われました。無伴奏でしかも原調での歌唱が圧倒的でした。《魔笛》の夜の女王のアリアもそうですが、このような大舞台、または難曲を歌う時に、どうやって勇気を出すのでしょう?私などは考えただけで怖ろしいです。もちろん事前の準備が大切だと思うのですが、それだけでなくオペラ歌手には鋼のような神経が必要なのではないかと思わされます。《魔笛》
今後の公演について
NISSAY OPERA 2020 特別編 オペラ『ルチア~あるいはある花嫁の悲劇~』 全1幕 原語[イタリア語]上演 日本語字幕付
日時 | 2020年11月14日(土)、15日(日) 各日 14:00開演(13:30会場) ※森谷さんは15日にルチア役で出演 |
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会場 | 日生劇場 |
出演 | 指揮:柴田 真郁 演出・翻案:田尾下 哲 管弦楽:読売日本交響楽団 |
プログラム | 原作:ガエターノ・ドニゼッティ作曲 オペラ『ランメルモールのルチア』 |
料金 | S席 10,000円 A席 8,000円 B席 6,000円 学生席 3,000円* [学生席発売:2020年10月14日(水)10 : 00~] ※学生席は日生劇場電話予約のみの取り扱い。28歳以下。法令で定められた学校に在学中の方のみ有効。要学生証提示。 |
詳細 | こちら |
お問い合わせ | 【日生劇場】 03-3503-3111(10:00~18:00) |
森谷真理 オフィシャル・ホームページ