楽友協会、創設
ウィーンフィルのニューイヤー・コンサートで有名なウィーン楽友協会ホール。11月29日は、その協会創設のきっかけとなった一大チャリティー・コンサートのあった日です。1812年のこの日のコンサートは、ナポレオン率いるフランス軍の侵攻をアスペルンで迎え撃ったオーストリア軍の戦勝記念と、その地を戦火で焼け出された被災者支援のために開かれました。演目はヘンデル作オラトリオ『アレクサンダー王の饗宴』のモーツァルト編曲版(副題『ティモテウス あるいは音楽の力』K.591)。現在でも奮い立とうとする時に「音楽の力」というワードが選ばれますが、ここからかもしれませんね。このとき出演者数は約600人。アマチュアを多く含むとしても、よくそれだけの音楽家が集まったものですが、対する聴衆は5,000人。これこそがウィーン=音楽の都の所以たるところでしょう。演奏会は大盛況。終演後には再演がすぐに決まり、その年末までに音楽愛好者のための協会設立に向けて会員507名の署名が集まりました。その中でプロの音楽家は唯一人、宮廷楽長アントニオ・サリエリだけでした。
教育者サリエリ
私設オーケストラによる音楽を高い水準で広めることを主目的とした楽友協会の創設が承認され、名誉総裁にはベートーヴェンの友人で強力なパトロンでも知られるルドルフ大公が迎えられました。協会の活動主体である演奏会、音楽院、資料館の内、まず音楽院が1817年に「音楽の基本は歌唱」という考え方から声楽学校としてオープンします。主なレッスンや練習は場所を転々と賃借りして行われていたそうですが、サリエリは、そこで自身の集大成とも言える教育手腕を振るいます。カリキュラムに合わせ教科書『歌唱教本』を書き下ろし、基礎的な段階から総合的な声楽科まで若い才能を無償で育てました。その後、音楽院は財政事情から1908年に国へ譲渡され、度々体制を変えながらウィーン国立音大へと遷移していきましたが、かつて師ガスマンから受けた人間教育の理念を礎に見事に次代へと繋いだ彼は、まさしく「ウィーン音楽界の父」でしょう。
典拠・参考文献:
「ウィーン楽友協会」公式ホームページ
「ウィーン楽友協会二〇〇年の輝き」(集英社新書)著者: オットー・ビーバ イングリード・フックス 小宮 正安 集英社 2013年
(文・武谷あい子)