若手ヴァイオリニストとして、実力も人気もナンバー・ワンである三浦文彰さん。NHK大河ドラマ「真田丸」オープニングの、あの特徴的なヴァイオリンを奏でている人といえば、クラシックになじみのない方でも多くが「あぁ!」と気が付くのではないでしょうか。
近年はソリストとしての活動だけではなく、指揮にも力を入れているという三浦さん。両親ともにヴァイオリニストの家に生まれ、お腹の中にいるときからヴァイオリンの音を聴き育ってきたという、生粋のヴァイオリン一家で歩みを進めてきた三浦さんは、いま何を見つめ、目指し、音楽を奏で続けているのでしょうか。
音楽とのなれそめ
―― 音楽一家にお生まれになった三浦さんですが、ヴァイオリンとの出会いを教えてください。
両親ともヴァイオリニストだったので、ヴァイオリンの音がずっと鳴っている家で育ちました。
楽器を習うのは「習いごと」の一環だったと思います。何かしらの習いごとを子どものときに経験する人は多いと思いますが、僕の場合も最初はそんな感じで、小さいヴァイオリンを渡されて、近所にあったスズキ・メソードの教室に通い始めました。僕がやりたいといったわけではなく、いつの間にか始まっていました。
僕は体を動かすのが好きな子供で、ずっと暴れているような子供で……2歳くらいのときにはゴルフのおもちゃをマンホールの上に置いて、それを「バーンッ!」って打つのが上手かったらしいです。
でもヴァイオリンの音はお腹の中にいるころからずっと聴いているので、自然な音という感覚はあった気がします。ただ最初の「習いごと」の時期は、ひとつ曲が合格したらお菓子を買ってもらえるとか、そんな感じでした。
―― ヴァイオリンのお稽古を本格的にやっていくと、多くの場合両親との衝突というエピソードがありますが、三浦さんの場合はいかがでしたか?
本格的にヴァイオリンをやっていくことになってからは、小学生のときは練習とレッスンに母がつきっきりでした。僕の先生は徳永二男先生なんですが、徳永先生は僕の父と母の先生でもあるので、やはり母としては責任感が他の母親とは違ったと思います。まるで僕は母の代わりなんじゃないかと思うくらいでしたし、次のレッスンまでに先生から出された課題をこなすことに対する、母の緊張感はすごかった。
レッスンに向かうときもドキドキするものですが、帰り道の車の中の雰囲気が本当に嫌でしたね(笑)。
―― 徳永先生のレッスンはいつごろから受け始めたのですか?
スズキ・メソードを始めたのが3歳のときでした。僕が6歳になったころに、先生が両親に「君たちの息子は何をしてるの?」とお尋ねになったのだそうで、「ヴァイオリンをかじってます」と答えたら、「じゃあ、ちょっと連れてきなさい。」という流れだったようです。
今でも最初に徳永先生のもとにうかがったときのことは覚えていますよ。なんというか、先生の雰囲気というか……。それまでも子どもなりに真面目にやっていたところはあるかもしれないけれど、全然世界がちがうわけで、「これはなんだかとんでもないところに来てしまった」と思ったことを覚えています。それと最初に弾いたときとその時の先生のお顔とか。
このときに「これからここに通って来たらどうか」というお話になって、毎週通うことになりました。ここからすべてが始まっていったという感じですね。
―― ヴァイオリニストを目指そうと思ったのはいつごろですか? きっかけはありましたか?
子どものころ、家で留守番していることが多くて、そのときに当時発売されたばかりの「アート・オブ・ヴァイオリン」というビデオをよく観ていたんですね。当時10歳くらいだったと思います。このころ野球もやっていて、野球選手に憧れるところもあったけど、やっぱりヴァイオリンがかっこいいなと。「アート・オブ・ヴァイオリン」に出てくる人たちみたいになりたい、そんな思いからさらに一生懸命やろうと思いました。
―― 「アート・オブ・ヴァイオリン」には巨匠がたくさん出てきますが、特に好きな人はいましたか?
それはもう、ナタン・ミルシテインが好きでしたね。ミルシテインをすべて真似して先生に怒られたり(笑)。弾き方もそうですが、間合いの取り方とかまで全部まねして、先生に「それはなし!」とか言われたりしていました。
そのビデオに出会う前から聴くことがすごく好きで、いつも聴きながら寝ていたんですよ。だから半分遊んでいる感じでもありましたけど、もう細かく真似したりして。あの当時の巨匠たちって個性的で、一音聴いたら誰の演奏かが一瞬でわかる、もうその人でしかないという個性がありましたよね。それがたまらなく好きですね。
ミルシテインは家にブラームスとブルッフのヴァイオリン協奏曲がカップリングされたCDがあって、特にそれがお気に入りでした。男らしくてクールで……。やっぱりかっこいいのが好きですよね、男は。
―― 当時好きな作曲家はいましたか?
ただ、実際演奏会で弾くことが多かったのはベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタなんです。デビューしたころからずっとリサイタルのプログラムに1曲は必ず入れてきたので、気が付いたら20代前半でベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタは全曲制覇していました。「ベートーヴェンは一番好きな作曲家」という方も多いと思いますが、僕にとっても身近に感じられる作曲家です。
それと並んで、モーツァルトも良く弾いていますね。モーツァルトはやはりすごく好きです。モーツァルトが一番自然に感じられるというところがありますね。
―― ハノーファー国際音楽コンクールに最年少の16歳で優勝したあと、大舞台に踏み出されていったわけですが、コンクールのときのエピソードはありますか?
コンクールが終わってから審査員の方々とお話する機会があるんですが、そのときに予備審査(ビデオ審査)の段階で、君が優勝すると思った、と言われたのは覚えています。
ただラッキーだったのはホストファミリーの方々がすごくいい人たちで、特に料理が上手かったんですよ。そのお家のお父さんが料理上手で、練習で夜遅くなってお腹がすいても、「何が食べたい?」って聞いて作ってくれました。ドイツのハノーファーで、そんな家庭はほとんどないと思うんです。ほかのコンテスタントたちにあとで聞いたら、夜はチーズとハムだけだったとかそんな感じだったみたいで。当時はそういうごはんは本当に嫌だと思っていたから、ホストファミリーのおかげでちゃんと弾けたんじゃないかなあとも思います。
コンクールを受けに行った当時は緊張する経験はほとんどなくて、でも第1ラウンド、第2ラウンド、そしてファイナルとなったときに、みんなから一気に連絡が入ってきたんです。想像以上のメールの量で、「なんでみんな知ってるの? これやばいかも」となりました。本選は楽しさが勝ったけど、でもかなり緊張したのも覚えています。そこからは人前で緊張するようになってしまいましたね。
コンクールが終わったら、見に来てくれていたホストファミリーが大喜びしちゃって、おじいさんとおばあさんなのに、祝賀パーティーでお酒飲んだ後にアウトバーンを時速200キロで飛ばして帰ったんですよ。車に乗りながら「もう俺死ぬんだ」と思いました。始まったのにもう終わるんだって(笑)。
―― コンクール後は数多くの指揮者やオーケストラなどと共演を重ねておられますが、特に感銘を受けたアーティストはいますか?
最初のキャリアでとてもありがたかったのが、室内楽でいろんな機会を作ってくれる音楽仲間と出会えたことです。
ジュリアン・ラクリンという世界的に有名なヴァイオリニストがいますが、ウィーンにいたときに彼がすごくかわいがってくれて、イタマール・ゴランやミッシャ・マイスキーといったすばらしい人たちとの共演の機会をくれたことは、自分の音楽にとって大きな影響がありました。
それと宮崎の音楽祭に徳永先生が呼んでくださったときには、ピンカス・ズーカーマンに演奏を聴いてもらう機会があり、それも僕にとっては大きなターニングポイントでした。目の前にズーカーマンの演奏を聴いたときに衝撃を受けましたね。
彼は右手のことを「バンク・アカウント」って言うんですよ。要するに、ヴァイオリン演奏において右手が音を作る、良い音で弾けばお金が入ってくる、だから右手が銀行口座だ、というわけです。それは僕も「ああ、なるほど」と思って、「これは、右手の技術は自分が納得いくまで磨きぬかなければ」と。ラクリンもズーカーマンの弟子だったので、同じようなことはよく教えてくれていたんですけれど、やはりズーカーマンに聴いてもらうとぜんぜん違いましたね。
ズーカーマンが指揮をするときに僕をいろんなところへ呼んでくれたりと、本当にチャンスをいろいろいただいていて、たくさんのことを教えてもらっています。
それと強烈だったのは、ヴァレリー・ゲルギエフですかね。ゲルギエフはとても忙しいので、コンサート当日にまだ現地に到着していなことがよくあるんですよ。ゲネプロの時間にいないということもありました。
そのとき僕はサンクトペテルブルクの音楽祭に出演することになっていて、マエストロとシベリウスのヴァイオリン協奏曲をやることになっていたんですが、ゲネプロの時間になってようやくマエストロから電話がかかってきまして。「今、まだモスクワにいる」と。「次の飛行機はエコノミーの真ん中の席しか空いてないけど、それでがんばってサンクトペテルブルクに向かうから」と言うんです。
その音楽祭には、僕の友人のヨナタン・ローゼマンというすばらしいチェリストが室内楽公演のために来ていたので、「彼とデュオで前半のプログラムなんとかやってくれ」、とゲルギエフが言うんです。ふたりで無伴奏を1曲ずつ弾いて、デュオもやってなんとかしのいで、休憩時間は30分というプログラムになりましたが、サンクトペテルブルクの人たちも慣れていて、「ゲルギエフはいつもそんな感じ」という雰囲気なんですよね(笑)。
そうしたら汗だくでマエストロが部屋に入ってきて、「第3楽章のテンポはどんな感じ?」と口頭で打ち合わせて、いきなり本番でした。結果的にはあのピリピリ感がシベリウスの冒頭にはちょうど良かったようにも思いました。おもしろい経験でしたね。
終演後、「明後日ウラジオストクに来られる?」って聞かれて、「いけますけど」と答えたら、「じゃあそこでもシベリウスをやろう」ということになりまして。結果的にウラジオストクではリハーサルありの公演でした(笑)。
<文・取材 尾崎羽奈>
「後編」へ続く
三浦文彰(Fumiaki Miura)
2009年世界最難関と言われるハノーファー国際コンクールにおいて、史上最年少の16歳で優勝。国際的に一躍脚光を浴びた。
これまでロサンゼルス・フィル、ロイヤル・フィル、ロイヤル・リヴァプール・フィル、マリインスキー劇場管、チャイコフスキーシンフォニーオーケストラ、ベルリン・ドイツ響、NDRエルプ・フィル、ハノーファーNDRフィル、フランクフルト放送響、シュトゥットガルト放送響、ケルン放送響、BBCスコティッシュ管、エーテボリ響などと共演。
共演した指揮者には、ドゥダメル、ゲルギエフ、フェドセーエフ、ズーカーマン、ロウヴァリ、ティチアーティ、オロスコ=エストラーダ、フルシャ、ドゥネーブ、ワシリー・ペトレンコ、カンブルランなどが挙げられる。
サンクトペテルブルクの白夜祭、宮崎国際音楽祭、シュレスヴィヒ=ホルシュタイン音楽祭、マントン音楽祭、メニューイン・フェスティバルなどの国際音楽祭にもたびたび招かれる。リサイタルでは、ルーブルでのパリ・デビュー、ウィグモアホールでのロンドン・デビューを果たす。国内では、大河ドラマ「真田丸」テーマ音楽を演奏したことやTBS「情熱大陸」への出演も大きな話題となった。
18年からスタートしたサントリーホールARKクラシックスではアーティスティック・リーダーに就任。ロンドンの名門ロイヤル・フィルのアーティスト・イン・レジデンスも務める。
22/23シーズンは、バルセロナ響、ウィーン室内管などと共演し、ピリスとのデュオリサイタルも行う。また、ウィーン、パリではリサイタルを行い絶賛を博す。スペインのアリカンテ響には、指揮者として登場した。
CDはエイベックス・クラシックスよりリリース。09年度第20回出光音楽賞受賞。22年「Forbes」Asiaにおいて「30 under 30(世界を変える30歳未満の30人)」に選出される。すでに19年には「Forbes」Japanにおいても30 under 30に選ばれている。
使用楽器は株式会社クリスコ(志村晶代表取締役)から貸与された1732年製グァルネリ・デル・ジェス「カストン」。
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