2002年のチャイコフスキー国際コンクール優勝という出来事によって上原彩子の存在は、日本人初、女性初という快挙と共に一気に世界へ広まった。以後、チャイコフスキーをはじめ、ロシア作品の演奏は彼女の代名詞ともなっている。そんな上原は現在、2022年にデビュー20周年を迎えるにあたり、3年連続のリサイタル・シリーズに取り組んでいる。インタビューではそのコンサートの話とあわせて、「音楽と向き合うこと」をテーマに彼女がどんな風にロシア音楽と出会い、取り組んできたのか、じっくり語ってもらった。
ロシア音楽への入り口
――8月に開催された「ららら♪クラシックコンサート」で披露されたチャイコフスキー の《18の小品》は、細やかなメロディとおおらかなメロディの2つの対比がユニークな作品ですが、サントリーホールの大ホールいっぱいに響くメリハリの効いた演奏を堪能させていただきました。
上原彩子 (ピアノ) チャイコフスキー:《18の小品》第16曲〈5拍子のワルツ〉ららら♪クラシックコンサート Vol.8「4手6手ピアノ特集」より
上原さんと音楽の話をするときに、やはり欠かすことができないのはチャイコフスキーやラフマニノフといった「ロシア音楽」の存在ではないでしょうか。作品がまとっている「ロシアニズム」を、演奏を通じて表現される上原さんですが、その「ロシア音楽」との出会いというと、長らく、モスクワ音楽院の教授であったヴェラ・ゴルノスタエヴァ先生に師事されていらっしゃった影響が大きいのでしょうか?
先生との出会いは、ヤマハマスタークラスに在籍していた小学校4年生の頃でした。それまでロシア音楽といえばチャイコフスキー の《四季》の中から1曲弾いたくらいで、当時はピアノ曲が多いショパンの作品に憧れていました。先生に指導を受けるようになってから、《四季》を何曲かやりました。ただ、ロシア音楽って、小さい子供が弾くには技術的に難しい曲が多いんです。まだ手が小さくてオクターブがとどかないとか。
でも、先生がレッスン中にロシア作品を色々弾いてくださったり、チャイコフスキーやラフマニノフといった作曲家の話を聞かせてくださったりするなかで、ロシア音楽というものを身近に感じるようになりました。
急にロシア音楽に目覚めた、という訳ではなくてこうした下地があって中学生くらいからロシア音楽に取り組むようになりました。
――まだご自身がロシア音楽をメインで演奏される以前に、体験としてロシア音楽に親しまれていらっしゃったんですね。日本人の演奏家の多くがヨーロッパをはじめ海外留学する理由の一つには、現地でしか感じ取れないものを吸収したい、という思いもあると思います。こうして、幼少時代より日本にいながらロシア人の先生に直接指導を受けられるというのは貴重な経験だったのでしょうね。
そうだと思います。ロシアの街や田舎の様子のお話も沢山頂きましたが、日本人が固有の奥ゆかしい気持ちをもっているように、風土といった言葉では表せない部分、ロシア人の典型的な感情など、先生と接して入ってくるものはあったと思います。
ロシア人ってパッと見た目、怖い印象があるじゃないですか。実際、最初お会いした時は「笑わないし、すごく怖そうだなぁ」って思ってました(笑)。でも、先生と接してると、全然そんなことなくて。むしろこっちが引いてしまうくらいに熱くなられることもありました(笑)。
――レッスン中、ゴルノスタエヴァ先生はとある楽曲の中で描写されるロシアの情景について、上原さんに熱心に説明してくださったことがあるそうですね。ロシアの指導法といえば、テクニック先行というイメージがあったので意外でした。実際はどのような感じだったのでしょうか?
テクニックは音楽を表現するために使うべきで、テクニックと音楽を切り離してしまうのは良くない、という考えが基本にありました。テクニックを磨く練習は欠かせないですが、それをクリアすることが目的にならないようにしなくてはいけません。表現がまず先にあるべきなんですね。それでよく、サーカスのように弾いてはダメだ、と言われていました。
――ゴルノスタエヴァ先生の指導はチャイコフスキーコンクールの頃まで続いたそうですが、メインは10代の頃。お2人は国籍も年齢も異なる訳ですが、10代の上原さんにとって難しいと感じたことはなかったのでしょうか?
先生は、生徒ができるまで見てくださる、という根気強い方でした。長い時は1曲で6時間に及ぶこともありましたが、できないからといって怒られることはなかったです。思うような成果が出なかったときは、じゃあ違うアプローチをとってみよう、というスタンスでした。
当時、先生は普段モスクワで大学生相手に教えていらっしゃったので、日本人を、ましてや10代の小学生を教えるのは初めてに近いことだったようです。生徒によってやり方を変えながら、探りながら教えてくださっている感じがありました。
だから、レッスンのたびに言われる内容が違うこともあったんですが、それがただデタラメではないことは、幼いながらに分かりました。そもそも、アプローチを変えながら進める、というスタンスなので、私自身「これは私には合わないから、別のやり方を探しているんだな」と受け入れて、レッスンというよりは、一緒に練習をしてくださっているようでした。結果的にそうした指導を経て、いろんなやり方を試しながらでないといけないんだ、という練習の仕方を身をもって学んだ気がします。
人によっては、先生が思っていることを生徒に一方的に言って終わってしまう、というやり方もありなんでしょうが、ゴルノスタエヴァ先生のレッスンは音楽を一緒に作っていく、という感じがありました。
――レッスンは食らいついていく感じでしたか、それとも楽しさの方があったんでしょうか。
レッスンは私が知らないことをたくさん教えてもらえて楽しかったです。1回のレッスンで上手くなるということではないんですが、時間の経過と共に、この曲ができるようになったとか、成長を実感しながら進んでいくことができてました。先生は上手く弾けるとちゃんと褒めてくださいましたし、頭ごなしに怒られることがなかったので、怒られたときは、何が良くなかったんだろう、と考えながらやっていました。
ただ毎回、山のような宿題が出され(笑)、次に先生が来日されるまでに必死に練習して、レッスンに備えていました。
心が解き放たれる瞬間
――こうしてゴルノスタエヴァ先生の指導を受けられるようになって、ロシア音楽を演奏されるようになったのは、いつ頃からでしょうか?
中学校3年生の時に仙台で開かれた、若い音楽家のためのチャイコフスキーコンクールに出場したのがきっかけでした。コンチェルトの演奏に指定は無かったのですが、先生からチャイコフスキーのコンチェルト(《ピアノ協奏曲 第1番》)を薦めてもらいました。 チャイコフスキーのコンチェルトを弾き始めるようになってから、自分の目もロシアものに向いていくようになり、比重も多くなっていきました。先生はオペラがすごくお好きで、チャイコフスキーの《エフゲニーオネーギン》を弾いてらっしゃいましたね。オペラは生で見ることができなかったですが、映像で見たりしていました。 ――なぜその頃からロシア音楽が「好きだな」、と思うようになったのですか? ベートーヴェンはテンポを守らなくてはいけない、という拘束の多さが大変だと感じていました。またショパンは、いつも「やり過ぎ」と言われてしまって、表現し過ぎだ、というんです。ショパンの演奏表現は、やはりある一線を超えては良くないところがあります。そうしたベートーヴェンやショパンとは違って、チャイコフスキーやプロコフィエフといったロシアものは、何にも縛られることなく、精神的にも無理なく弾くことができることに嬉しさを感じていました。 ――2002年の「チャイコフスキー国際コンクール優勝」というニュースは当時大きな話題になりましたが、そんないわばプレッシャーから、ご自身を上手く保つことは大変ではなかったですか?
緊張感もありましたが、今までになく大きな舞台を踏めたこと、そしてたくさんの方に演奏を聴いてもらえるようになることの嬉しさの方が大きかったです。さらに当時は、若手がオーケストラと共演する機会は今ほど多くないなかで、そういう本番がある喜びでいっぱいでした。やはり舞台上でしか学べないことってあって、直後の1、2年は本当にたくさんのことを吸収できたと思います。 ――それからまもなく20年。節目の年にあたる2022年に向けて、現在取り組まれている3年連続のリサイタル・シリーズについて聞かせてください。今年(2020年)3月に行われたvol.1もチャイコフスキーとモーツァルトというラインナップでした。今回2021年1月13日に行われるvol. 2のプログラムもラフマニノフとショパンを取り上げられて、こちらもロシア作品と他の作品を組み合わせられているんですね。 vol.1もそうなんですが、自分なりに共通点を感じる作曲家を並べています。今回のラフマニノフとショパンはどちらも作曲家であり、ピアニストでもありました。プログラムでの共通点は一目瞭然で、ショパンの《24のプレリュード》と、その中の20番目の主題をもとにラフマニノフが作った変奏曲を演奏します。弾いていて感じることは、2人が生きた時代のピアノが全く違う楽器だったということです。ショパンはプレイエル社が作ったピアノを使用していましたし(現在のピアノと見た目は近いが音色に特徴がある)、それより後に生まれたラフマニノフの時代は100年も変わらないんですが、もうモダンピアノに近かったことを思うと、その進化が面白いなと思います。 ――それぞれの時代の楽器を意識しながらも、モダンピアノで弾く時にどんなことを感ますか? ラフマニノフは、大きい音でも小さい音でも太い音で歌っていきます。対してショパンは、太すぎると微妙な色合いが出せないので、しっかり音を鳴らしきる場面は一曲の中で数回で十分な気がします。同じピアノで弾く時に使い方を変えていますね。 ――ラフマニノフの《ショパンの主題による変奏曲》は30分近くに及ぶ壮大な曲で、コンサートではなかなか取り上げられることのない難曲でもありますね。 初めのテーマはショパンだけど、終わる頃にはすっかりラフマニノフの世界で、よくここまで発展させられるなぁと思いながら弾いています。テーマからして、ショパンのプレリュードの中で聴くのと、変奏曲の中で聴くのとでは全く違う印象になるので、そこも楽しんでもらえると思います。 ――現在上原さんはこうして演奏活動を継続される一方で、プライベートではご家庭があり、3児の母でもいらっしゃいます。ご自身の環境の変化が演奏にもたらす影響はありましたか? 人間としての幅が広がった気がします。ピアノを演奏することは他の人が作った曲を弾く訳ですが、作曲者の前に自分が出るのは良くないと思いながらも、とはいえ、自分のフィルターを通して音を出す以上、人としての豊かさは必要だと考えています。 ――チャイコフスキー国際コンクール後のご自身の環境の変化は、演奏面でもプラスになっているんですね。今度は演奏するときの感覚についてお聞きします。20年を経て時間の経過と共に感覚自体も変わっていくものでしょうか。 そうですね。同じ曲でも2,3年時間を置くと感覚が変わることはあります。それは良いこととして捉えていて、良くないのは毎回同じように弾いてしまうことです。そのため、毎回新鮮な気持ちが持てるように、何か新しいものがないか探るようにしています。ただ、この場合は演奏から離れたところで探して奇をてらっては良くないんですけどね。今まで見ていた楽譜の中に実はこんなサインがあった、と一つ発見をするだけでも、新鮮さにつながる気がします。 ――確かに、常に新鮮さを保つことは挑戦し続けることであり、なかなか簡単では無いように思います。その中で、ご自身の演奏に納得できるのは、どんな時でしょうか? 心技体が一致した時ですかね。指は良く動いたけど、なんか頭が空っぽだった、というときはダメだし、頭は動いて心も満足したけど指が空回りした、というのはやはり納得できないですね。自分がコンサートの本番で楽しめるのが一番だと思っています。弾きながらそれまで思いつかないようなアイディアが生まれたり、それまで気づかなかったことに気づけたりすると、やはり楽しいです。 ――こういう瞬間が積み重なることで、先ほどの「いつも新鮮に」と連動していい循環になっていくのかも知れないですね。 ――20周年の後も続いていく演奏家人生。さらなる高みを目指されていく中で、今後上原さんはどうやってご自身の演奏を磨いていかれるのでしょうか? 私よりも先輩の指揮者の方がたくさんいらっしゃるので、そうした方々との共演を重ねていきたいです。 言葉でどうこうというよりは、演奏を通じて学ぶことがたくさんあるように思います。若い時は感じられなかったことが、今では分かるようになったことがたくさんあるので。やっぱり、先輩方の音楽はもうひとまわり大きいんです。大きく捉えていらっしゃるように感じます。もちろん同年代の演奏家の方からも刺激は受けますので、室内楽もやっていきたいです。 他には、これまでにあまり取り組んでいない作曲家の作品を演奏してみたいです。例えばロシアの作曲家であるスクリャービンなんかは、若い頃は先にラフマニノフを弾くべきだ、って思ったので後回しになっちゃってました(笑)。あと、シューマンがすごく好きなんです。これまでも弾いてはきたのですが、もっとじっくり取り組んでみたいと思います。 ――これからの上原さんの進化がとても楽しみです。先ほどの常に新鮮さを保つこと、心技体を連動させることって、コントロールを効かせづらい非常に難しいことだと思うんですが…その確率を上げていくとしたら、どんなことだと思われますか? やっぱり音楽に集中することだと思います。弾く前に曲の全体像が把握できて、そこに自分がすっと入っていける状態を保っていくことでしょうか。それが一番理想ですね。 ――ありがとうございます。最後に、ららら♪クラブは「クラシックコンサートを楽しもう!」がテーマなのですが、上原さんの演奏を聴きにいらっしゃる方に向けて、「楽しみ方のコツ」やメッセージをお願いいたします。 コンサートって、演奏者の人だけが音楽を作るんじゃないと思います。ホールの空気やお客様も含めて全員がコンサートの作り手なんです。そして、聴いていていただくと、演奏者が呼吸をしているのが分かると思うんですが、それを一緒に感じていただけると楽しいのではないかと思います。動画や音源からでは感じられないコンサートの魅力の一つですので、そういう思いと一緒にと楽しんでいただけたら嬉しいです。 (取材・文 北山奏子) 静岡交響楽団 上原彩子(ピアノ)チャイコフスキー国際コンクールでの優勝から20年
「演奏すること」について
さらなる高みへ向かって。音楽に、集中する。
今後の公演について
2022年デビュー20周年に向けて Vol. 2
上原彩子 ピアノ・リサイタル
日時
2021年1月13日(水) 19:00開演
(開場18:20)
会場
東京オペラシティコンサートホール
出演
[ピアノ]上原彩子
プログラム
鍵盤の音楽史に永遠にその名を刻む2人のピアニスト・作曲家へのオマージュ
ショパン & ラフマニノフの世界
ショパン:
24のプレリュード Op. 28
プレリュード 嬰ハ短調 Op. 45
ラフマニノフ:
プレリュード 嬰へ短調 Op. 23-1
プレリュード 変ホ長調 Op. 23-6
ショパンの主題による変奏曲 ハ短調 Op. 22
詳細
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お問い合わせ
ジャパン・アーツぴあコールセンター
TEL:0570-00-1212
(10時〜18時 年末年始を除く)
ファミリーで楽しむ
新春富士ニューイヤーコンサート
心揺さぶるピアノ協奏曲と、
静響のオーケストラサウンドで新年を!
日時
2021年1月17日(日) 14:30開演
(開場13:30)
会場
富士市文化会館 大ホール
出演
[指揮]篠﨑靖男
[ピアノ]上原彩子
[管弦楽]静岡交響楽団
プログラム
ヨハン・シュトラウス2世:トリッチ・トラッチ・ポルカop.214
ヨーゼフ・シュトラウス:鍛冶屋のポルカop.269
ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第2番ハ短調op.18
ブラームス:交響曲第1番ハ短調op.68
詳細
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お問い合わせ
ロゼシアター(チケット窓口)
0545-60-2500
054-203-6578(平日10:00~17:00)
第50回 紀陽コンサ-ト
上原彩子が奏でる子どものための
『くるみ割り人形』
日時
2021年1月30日(土)14:00開演
(開場13:00)
会場
和歌山市民会館 大ホール
出演
[ピアノ]上原彩子
プログラム
チャイコフスキー:バレエ音楽「くるみ割り人形」op.71 より
クララとくるみ割り人形/中国の踊り(お茶)/トレパック(ロシアの踊り)/花のワルツ/こんぺい糖の踊り 他
詳細
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お問い合わせ
一般財団法人紀陽文化財団 事務局(紀陽銀行経営企画部内)TEL 073-426-7133
遠藤真理&上原彩子 デュオ・リサイタル
日時
2021年2月30日(土)14:00開演
(開場13:00)
会場
南相馬文化会館 大ホール
出演
[ピアノ]上原彩子
[チェロ]遠藤真理子
プログラム
サン=サーンス:チェロ・ソナタ第1番 ハ短調 Op.32
ラフマニノフ:チェロ・ソナタ ト短調 Op.19
詳細
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お問い合わせ
【南相馬市】南相馬市民文化会館 チケット予約専用電話
①080-9717-7342 ②080-9171-7344
【相馬市】ショッピングタウンベガ 0244-26-8712(11月29日から取り扱い)
第12回チャイコフスキー国際コンクール ピアノ部門において、女性としてまた、日本人として史上初めての第一位を獲得。 第18回新日鉄音楽賞フレッシュアーティスト賞受賞。 これまでに国内外での演奏活動を行ない、ヤノフスキ、ノセダ、ルイジ、ラザレフ、ブラビンス、ペトレンコ、小澤征爾、小林研一郎、飯森範親、各氏等の指揮のもと、国内外のオーケストラのソリストとしての共演も多い。 2004年12月にはデュトワ指揮NHK交響楽団と共演し、2004年度ベスト・ソリストに選ばれた。CDはEMIクラシックスから3枚がワールドワイドで発売された他、キングレコードに移籍し、「上原彩子のくるみ割り人形」「ラフマニノフ13の前奏曲」「上原彩子のモーツァルト&チャイコフスキー」がリリースされている。 東京藝術大学音楽学部早期教育リサーチセンター准教授。 オフィシャル・ホームページ