2023年、数え年で88歳を迎えるクラシック界のレジェンド、舘野泉。“左手のピアニスト”として名高いが、それに収まらない活動ぶりはクラシックファンなら周知の事実であろう。フィンランドと日本の2か国を拠点に活動し、セヴラックをはじめ、フィンランドにおいても知られざる作曲家の作品も広く紹介してきた。さらに、舘野泉の左手のためにはこれまでに10か国の作曲家により100を超える作品が献呈され、演奏にも今なお積極的な姿勢を見せてくれている。
米寿を迎える今年、どのような心境を抱き、作品を紡いでいるのだろうか。公演を控えた舘野さんにお話を伺った。
©武藤章
―― 舘野さんのコンサートで初めて「左手のための作品」を聴かれる方も多いかと思いますが、左手だけで紡がれる演奏の魅力や聴きどころをお伺いしたいです。
2001年にエストニアの作曲家ウルマス・シサスクの《銀河巡礼》という作品を日本の各地で演奏しました。まだ両手で弾いていた時代です。この作品は北の空に輝く星座の数々を描き、演奏に1時間を要する大曲ですが、その中に〈海蛇座〉という曲があったように記憶しています。蛇のようにすばやく動く音型が両手そろった同じ音型で鍵盤の端から端までダイナミックに動きまわるもので、大変な迫力でした。
そのシサスクが2011年でしたか、左手だけで演奏するようになった私のために《エイヴェレの星たち》という6曲からなる組曲を書いてくれました。その中の1曲に〈海蛇座〉とまったく同じものがありました。ただしその右腕で弾く部分を外して、左手だけで弾くものだから音は一本の線だけになります。
終演後、シサスクが駆け寄ってきました。「おい、左手一本で弾いた方が迫力も緊張感もあってすごいな。音楽の真髄が突きつけられるようで、目から鱗だ」と興奮していました。
フィンランドの作曲家ノルドグレンに《振袖火事》という作品があります。左の作品で、題材を小泉八雲の怪談から得たものですが、その冒頭に左手の連打で4小節の間、強打が響きます。そしてその後に続く哀惜と怨念の籠った静かな歌とのコントラストは、何か目に見えぬ運命の世界の深淵に心を引きずり込まれていくかのようです。この曲の冒頭4小節ですが、これは左だけで弾く方が両手でよりも緊張感と迫力がより強く感じられるでしょう。両手ではこのような力は得られません。極限すれば平凡で優等生的な結果が生まれるだけです。
私は演奏する際に左手だとか両手だとか、あるいは3本の手で弾いているとか考えることも感じることもまったくありません。どっちがどうだということではなくて、自分に与えられた条件の中で最善を尽くすのみです。そうすると普通では考えられぬようなことも起きてくるのです。おもしろい世界だなと思います。
―― 今年は春と秋に全国をツアーで回られますね。曲目についてお聞かせください。NHKのBSプレミアムで放映されたドキュメンタリーでは、平野一郎さん作曲の《鬼の学校》を演奏されたシーンが登場し、評判だったと伺っています。今回のツアーでも後半に演奏されますね。
《鬼の学校》は彼の前作の《鬼の生活》からのつながりから生まれた曲です。平野さんは日本の古い風俗を訪ねて日本全国を歩きまわり、民謡や踊りやお祭りを採集したり、現地で触れたりしてきました。もともと土俗的なものに興味がある人なんです。あの音楽は非常に視覚的な要素があり、目をつむって聴いていても情景が目に浮かぶように要素がとても強くはっきりとしていて、いろいろなキャラクターがよく説明されています。
展開される物語もどこか漫画的なんですよね。たとえば鬼が鬼であるために、酒呑童子からいろいろと「鬼の正訓」を聞かされる場面が出てきます。鬼の生徒たちは時にのんびり、時に素早く反応します。それに僕が時々「バン!」と喝を入れたりね。現代は人間が人間らしくなくなって、ウクライナとかミャンマーのようにひどいことが起きたり、変な大統領選で変な大統領が出てきたりする時代。それを風刺しているような曲です。鬼は鬼らしく、本来持っている生命力で生きていこう、という感じでしょうか。
《鬼の学校》は昨年初演してから、どこで弾いても反響があります。共演者は普段はオーケストラの首席奏者を務める名手たちですから、充実したアンサンブルを楽しんでいただけると思います。
エストニアの作曲家ウルマス・シサスクの組曲から1曲選んだのは、彼が昨年の12月17日に63歳で亡くなってしまったから。組曲《エイヴェレの星たち》は、僕に捧げられた作品です。CDにもしました。シサスクとはいろいろな付き合いがあったし、日本にも来てくれました。そんな縁があるので彼の曲を弾くことにしました。
―― 舘野さんの演奏の醍醐味がこれでもかと詰まったプログラムですね。モーツァルトもプログラムに入っています。
僕はもう30年くらいモーツァルトを全然弾いていないんです。30年くらい前に「安川加寿子先生を偲ぶ会」に先生の門下生が集まって、モーツァルトだけのコンサートをやったことがあります。その時僕の割り当てられたのが、今回選んだ《女ほど素敵なものはない》。それを思い出したものですから、もう一度我が身を振り返り、モーツァルトで自分の中に溜まっていたものをすっきりと洗いざらししたいのです。
モーツァルトの作品はほとんど“素”のような音楽ですから、ちょうど断食をするような気持ちです。ロマン派以降の作品のようにいろいろなものがくっついている音楽とは違う。洗い直しをして、今やっておかないともうやる機会がないと思いました。
ただ、モーツァルトに左手の曲はないので、光永浩一郎に編曲してもらいました。そうしたらこれがまた大変な曲で! 両手だとノンレガートでもフィンガーレガートでもペダルなしでずっとつないでいけるけれど、右から左に飛ぶのが多くなってしまいますので、それをつなぐ技法がむずかしい。音域も広いですしね。でも、それはそれでおもしろい課題だと思っています。ピアノの弾き方ってこうするのだと、新しい発見がどんどん出てくるんです。
モーツァルトの作品は、ピアノとチェロの二重奏にも編曲してもらったのですが、とても素敵な仕上がりです。コンサートでは、左手ピアノとチェロ版を演奏する予定です。
―― ソールデュル・マグヌッソンはアイスランドの作曲家ですね。
マグヌッソンに2年くらい前に頼んだピアノ・ソナタは、今年の秋から弾くつもりでした。それが早くできてきたので春のツアーで弾くことにしました。彼にはこの30年間でもうひとつ大きなピアノ・ソナタとかチェロ・ソナタ、ピアノのための《アイスランドの風景》という組曲、ヤンネと僕のためのヴァイオリンとピアノの曲も書いてもらっています。彼も時代によって変わっていて、最初にできたピアノ・ソナタと今度のソナタとでは全然違うんです。20年前のソナタは本当に大変。ラヴェルの《左手のためのピアノ協奏曲》のカデンツァみたいなものですよ。大洋のようでもあり、荒々しい山のようでもあり。
ところが今度届いた楽譜を見たらまるでスカスカです。単音でずっと続いていく音楽で、音の厚さはなくて、簡潔になっていた。こりゃあ弾きにくいなと思いました。それでもやり出してみると、ああやっぱりマグヌッソンの音楽なんだと思います。すごく不思議なんだけれど妙に存在感があって。彼ってロマンティストだなというところが見えてきておもしろかったです。
とてもいい曲ですから、春のツアーで初演となりますが、札幌でも福岡でも大阪でもきっと喜ばれるでしょう。前作は30分くらいありましたが、今度の作品は15分くらいの曲です。
―― 舘野さんはたくさんの現代音楽家に新作を委嘱されています。その場合、どのような依頼の仕方をされているのでしょうか?
向こうは僕のことを知っていますので、あれやこれやと注文はしません。平野さんには「鬼というテーマで書いてください」とか、吉松隆さんには「北欧の澄んだ空気や自然を思い起こせるように」と言うけれども、そのほかはあまり言わない。自由に書いてもらったほうがいいからです。編成と所要時間は提示します。だいたい15分くらいですね。
でも平野さんだとそれが30分になっちゃう(笑)。《鬼の学校》は彼が提案してきたんですよ。おもしろいアイデアだと思ったので、すぐに「いいね!」と言いました。いろんな楽器を使うし、コントラバスが入るのがおもしろくて変化もあるし、一方では深みもある。30分でも40分でもいいよと言ったら40分になってしまいました(笑)。最初の《鬼の生活》は15分でと頼んだら25分になったし。それはそれでかまわないんです。すばらしい内容で書いてくれましたしね。
―― 舘野さんは7月から9月の猛暑の時期はフィンランドで過ごし、10月になると日本に帰国されます。フィンランドと日本でそれぞれ音楽を演奏する時に変化はありますか。
特に変化はありません。ふたつの国で暮らし、世界中で演奏旅行をしてきました。そのせいか、僕は音楽を勉強するためにどこかに行くという考えはないんです。自分で歩いて生きていけば、音楽はどこにでもあると思う。「これがモーツァルトのスタイルだ」とか「ベートーヴェンのスタイルだ」とは言えるけれど、広く受け入れて音楽にしていくためには、自分に想像力があっていろんな体験を続けていけばいいんだと思いますよ。世界の方々に行っても、違うというふうにあまりとらえないし感じない。そこにいたらそこで自然に、人々と同じ目線でいるというふうに生きてきました。
行った先ではおもしろい体験をたくさんしました。だいぶ前にラオスへ行った時には、グランドピアノが全国に3台しかない。使えるのは1台だけ。それも小さなグランドピアノだけなんです。調律師は当時のラオスの人たちにとっては聞いたこともない職業だというので、その時はタイから来てくれた。でもそういうことを僕はあまり苦にしないんです。どんな楽器であっても1時間2時間と弾いていると、だんだん自分の音になってきます。出合った楽器を好きにならないといけないですよ。
―― 秋には東京でも米寿記念のバースデーコンサートを開催されますね。
今年は数えで88歳になります。11月10日の誕生日には東京でバースデーコンサートを開き、《鬼の学校》をもう一度、今度は前半に演奏する予定です。後半はヤナーチェクの《カプリチオ》(左手ピアノと8本の管楽器のために)。フルートやトランペット、トロンボーンなど、管楽器がいろいろ入る曲です。
管楽器のメンバーも、第一線で活躍する名手たちが集まってくれています。《カプリチオ》は、大変内向的な曲ですから、それでコンサートが終わるとちょっと寂しいので、終わりに同じ編成でもう1曲は新作を演奏します。それは今、アルゼンチンの作曲家パブロ・エスカンデに書いてもらっているところです。どんな曲が仕上がってくるのか、とても楽しみにしているところです。
88歳のお祝いはパンパカパーンと華やかにやりたいのです。
―― とても楽しい構想ですね。聞いているこちらまでワクワクしてきます。舘野さんはこれまでにも多くのコンサートに出演されたと思いますが、強く印象に残ったコンサートについて教えていただけますか?
演奏会はそのひとつひとつが一期一会です。今までに数千回のコンサートを世界の各地で行ってきましたが、忘れられぬ思い出として残っているのはもう70年近く前のことで、それは演奏会のことではなく前夜にリハーサルをひとりでしていた時のことでした。
場所は四国の新居浜から船で渡る、四坂島という小さな島です。夜、誰もいない小学校のアップライトピアノで練習をしていると、かさかさと小さな動きが聞こえました。高校生ぐらいの女の子と、もっと小さい男の子でした。目に見えないところでひっそりと聴いていたのです。ふたりといろいろ話をして、その後はまた練習を聴いてもらいました。その女の子も20年ぐらい前に亡くなられたようです。男の子はどうしているでしょう。
もうひとつはアイスランドの小さな町でのコンサートです。これも演奏会というよりは、その前にひとりで練習していた時で、もう30年ぐらい前のことでしょうか。夜の9時近くなった頃、20歳ぐらいの娘さんがひとりで会場に入ってきました。質素ではあるが綺麗な身なりをしていました。
「今晩コンサートがあると聞いてきたんですけど」
「ええ、僕もそう聞いてますよ」
主催者の無骨な対応で、会場の座席もまだセットされていませんでした。外では大西洋の荒波が牙を剥き、海鳴りが地を揺るがすように聴こえてきます。
「練習を聴いていてもいいですか」
「どうぞどうぞ。もっと近くに寄ってください」
コンサートは夜10時に始まり夜中の零時近くに終わり。真夜中だから聴衆は家路を急ぐのかと思ったがとんでもない。それからみんなのお喋りが始まり、お開きになったのは午前2時でした。
―― 大変貴重なお話をありがとうございました。米寿記念のツアーがすばらしいものになるよう、お祈り申し上げます。
<構成・編集 浅井彩>
今後の公演情報
舘野泉米寿記念演奏会 福岡公演
日時 | 5月28日(日) 14:00開演(13:30開場) |
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会場 | FFGホール |
出演 |
[ピアノ]舘野泉
[ヴァイオリン]ヤンネ舘野 |
プログラム |
シサスク:組曲《エイヴェレの星たち》より第2曲 モーツァルト(光永浩一郎 編):女ほど素敵なものはない マグヌッソン:ピアノ・ソナタ 平野一郎:《鬼の学校 左手のピアノと弦楽の為の教育的五重奏》より〈基礎科目〉〈教養科目〉〈実践科目〉〈生存科目〉〈運動〉〈給食〉〈転寝〉〈掃除〉〈放課後の鬼の訓練〉ほか |
チケット | 全席指定:5,500円(当日6,000円) |
詳細 | こちらから |
お問い合わせ | エムアンドエム TEL:092-751-8257(平日10:00~18:00) |
舘野泉米寿記念演奏会 大阪公演
日時 | 6月12日(月) 19:00開演(18:30開場) |
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会場 | あいおいニッセイ同和損保 ザ・フェニックスホール |
出演 |
[ピアノ]舘野泉
[ヴァイオリン]ヤンネ舘野 |
プログラム |
シサスク:組曲《エイヴェレの星たち》より第2曲 モーツァルト(光永浩一郎 編):女ほど素敵なものはない マグヌッソン:ピアノ・ソナタ 平野一郎:《鬼の学校 左手のピアノと弦楽の為の教育的五重奏》より〈基礎科目〉〈教養科目〉〈実践科目〉〈生存科目〉〈運動〉〈給食〉〈転寝〉〈掃除〉〈放課後の鬼の訓練〉ほか |
チケット | 全席指定:6,000円 |
詳細 | こちらから |
お問い合わせ | キョードーインフォメーション TEL:0570-200-888 |
米寿記念演奏会
舘野泉 バースデー・コンサート
日時 | 11月10日(金) 14:00開演(13:20開場) |
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会場 | 東京オペラシティ コンサートホール |
出演 |
[ピアノ]舘野泉
[指揮]平石章人 |
プログラム |
ヤナーチェク:カプリチオ《挑戦》(左手ピアノと管楽器のために) パブロ・エスカンデ:新作・委嘱作品・世界初演 ※詳細後日発表 平野一郎:《鬼の学校 左手のピアノと弦楽の為の教育的五重奏》より〈基礎科目〉〈教養科目〉〈実践科目〉〈生存科目〉〈運動〉〈給食〉〈転寝〉〈掃除〉〈放課後の鬼の訓練〉ほか |
チケット | 全席指定:6,500円 |
詳細 | こちらから |
お問い合わせ | ジャパン・アーツぴあ TEL:0570-00-1212 |
舘野 泉(Izumi Tateno)
クラシック界のレジェンド、86歳ピアニスト。東京生まれ。1960年東京藝術大学を首席卒業。1964年よりヘルシンキ在住。1981年以降、フィンランド政府の終身芸術家給与を受けて演奏生活に専念する。領域に捉われず、分野にこだわらず、常に新鮮な視点で演奏芸術の可能性を広げ、不動の地位を築いた。これまで北米、南米、オーストラリア、ロシア、ドイツ、フランス、北欧諸国を含むヨーロッパ全域、中国、韓国、フィリピン、インドネシアなどアジア全域、中東でも演奏会を行う。これまでにリリースされたLP/CDは130枚におよぶ。 ピュアで透明な旋律を紡ぎだす、この孤高の鍵盤詩人は、2002年に脳溢血で倒れ右半身不随となるも、しなやかにその運命を受けとめ、「左手のピアニスト」として活動を再開。尽きることのない情熱を、一層音楽の探求に傾け、独自のジャンルを切り開いた。“舘野泉の左手”のために捧げられた作品は、10ヶ国の作曲家により、100曲をこえる。2012年以降は海外公演も再開し、パリやウィーン、ベルリンにおいても委嘱作品を含むプログラムでリサイタルを行い、満場の喝采で讃えられた。2020年、演奏生活60周年を迎えて開催の記念リサイタルの全国ツアーは各地にて 大反響をよんだ。
2023年には米寿記念演奏会を、東京、大阪、札幌、福岡ほか全国各地で予定している。 もはや「左手」のことわりなど必要ない、身体を超える境地に至った「真の巨匠」の風格は、揺るぎない信念とひたむきな姿がもたらす、最大の魅力である。新刊「舘野泉フォトストーリー」(求龍堂刊)。