- 引用
- コンサートをより楽しむには、その演奏される曲を理解しておくことが大切。作品が世に出るまでのエピソードや人気の背景を知れば、コンサートがさらに楽しくなることでしょう。そこでスタートした、コンサート・プログラムを簡単に予習する特集企画「Program library」。
2024年7月26日から8月11日にかけて、フランスの首都パリで夏季オリンピックが開催されています。今回でVol.10となる「Program library」ですが、フランスが、そしてパリが全世界から注目を集める今こそ、フランス音楽と作曲家の魅力をご紹介いたしましょう。
フランスのバロック音楽で活躍したクープラン、ラモー
バロック音楽の作曲家と聞いて、「ららら♪クラブ」読者のみなさまは誰を思い浮べるだろうか。ヴィヴァルディ、J.S.バッハ、ヘンデル……さまざまな作曲家の名が挙がることだろう。しかし、フランスの作曲家の名を挙げる人は多くないのが現状である。本稿では、フランスのバロック音楽の作曲家として、フランソワ・クープラン(1685‐1757)とジャン=フィリップ・ラモー(1683‐1784)をご紹介する。
クープランは、フランスのクラヴサン(チェンバロ)音楽の大家であり、「オルドル」と呼ばれる、舞曲と性格的小品からなる組曲の分野で偉大な業績を残した。全4巻の《クラヴサン曲集》は、27の組曲から成り立っており、第3巻第14オルドル(組曲)の第1曲〈恋のナイチンゲール〉は、日本における演奏機会も多い。ちなみにこの《クラヴサン曲集》、第2巻第9オルドルの第5曲になんと〈オリンピック〉というタイトルの作品がある。クープランがここで思い描いていたのは古代ギリシャのオリンピックであり、爽やかで軽快な楽曲となっている。
ラモーは、クラヴサン音楽とオペラの両方で大活躍した。また、それまであまり体系的に論じられてこなかった、和音の並べ方(和声学)を初めて体系的に理論化したことでも知られている。《クラヴサン曲集と運指法》と題した曲集に収録の〈タンブラン〉という楽曲は、太鼓の響きをクラヴサンで再現しているユニークな作品である。また、《イポリトとアリシ》《ナヴァールの姫君》など、オペラ・バレエの分野でも傑作を残しており、特に《優雅なインドの国々》の劇中歌われる太陽への讃歌〈この世の輝く炎〉は、ラモーの生前から人気を博してきた。
ベルリオーズの《幻想交響曲》
フランスのクラシック音楽の歴史を大きく動かしたのは、エクトル・ベルリオーズ(1803‐1869)とみて間違いないだろう。医学の道を途中で抜け出し、パリ音楽院で作曲を学んだ彼の、最初のヒット作が《幻想交響曲》である。1827年に、英国の劇団の引っ越し公演でシェイクスピアの『ハムレット』を観劇したベルリオーズは、オフィーリアを演じた女優ハリエット・スミスソンに激しい恋心を抱いた。熱心にファンレターを送ってハリエットにアピールしたものの、恋は実らず、やがて別の女性と交際し始めたベルリオーズは、ハリエットへの愛憎半ばする感情を昂らせ、「ある若い音楽家が失恋して服毒自殺を試みるが、薬の量が足りず失敗し、重苦しい眠りの中で愛する女性の夢を見る。夢の中で彼はその女性を殺した罪で死刑となり、死後魔女の饗宴に加わる」という筋書きの《幻想交響曲》を書き上げた。本作は、「夢、情熱」「舞踏会」「野の風景」「断頭台への後進」「ワルプルギスの夜の夢」という5つの楽章から成り立っており、愛する女性を表すメロディ(イデー・フィクス)が曲中さまざまに姿かたちを変えて登場する。巨大な編成のオーケストラと、表情豊かなオーケストレーション、そして一部の楽器を舞台裏に配置して音の遠近感を出す大胆さは、本作がベートーヴェンの死からわずか3年後に書かれたことを忘れさせ、ベルリオーズがロマン派音楽の扉を開いたひとりであることを印象付ける。
余談だが、1832年にハリエットが《幻想交響曲》の再演を聴きに来たことをきっかけに、ベルリオーズは彼女への恋を再燃させ、やがてふたりは結婚した。しかし、その結婚生活は不幸の連続で、結局ふたりは別居してしまう。彼にとってハリエットは「憧れの存在」ぐらいがちょうどよかったのかもしれない。
ラロの《スペイン交響曲》
エドゥアール・ラロ(1823‐1892)が1872年に発表した、ヴァイオリン独奏とオーケストラのための《スペイン交響曲》は、フランスの作曲家によるヴァイオリン協奏曲の中でも特に演奏頻度が高い1曲。当時のフランスではスペイン音楽が流行っており、スペインの血を引くラロの手による本作は、随所にみられるスペイン的な響きが瞬く間に人気を博した。
サン=サーンスの作品
カミーユ・サン=サーンス(1835‐1921)は、元々シューマンやワーグナーといったドイツ音楽に傾倒していたものの、1870年の普仏戦争の勃発とほぼ時を同じくしてフランスにおけるドイツ音楽優位・オペラ優位の現状を不安視するようになり、1871年に「国民音楽協会」を立ち上げるなどしてフランス音楽、とりわけオーケストラをはじめとする純音楽の発展に尽くした作曲家である。
ヴァイオリンとオーケストラのための《序奏とロンド・カプリチオ―ソ》(1863年)、交響詩《死の舞踏》(1874年)、ヴァイオリン協奏曲第3番 ロ短調(1881年)、そしてさまざまな動物たちの姿をイメージしつつ、ベルリオーズ、メンデルスゾーンをはじめ多くの作曲家のパロディを盛り込んだ《動物の謝肉祭》(1886年)など数多くの傑作を残しているが、筆者のイチオシは交響曲第3番《オルガン付き》(1886年)だ。オーケストレーションの技術に優れ、ピアノの名手であり、そして優秀なオルガニストでもあったサン=サーンスが「オレのすべてを詰め込んだ」と豪語した作品だけあって、オーケストラ、ピアノ、オルガンが織りなす緻密な構成とド迫力のサウンドは一度聴いたら忘れられない。
フランクの交響曲
ベルギー出身で、フランスで作曲家・オルガニストとして活躍したセザール・フランク(1822‐1890)は、サン=サーンスの「国民音楽協会」の設立に関わり、パリ音楽院で多くの後進の育成にあたった。長くヒット作に恵まれなかったが、晩年の1886年に作曲したヴァイオリン・ソナタ イ長調と、1888年に作曲した交響曲 ニ短調は、ヴァイオリン・ソナタ、交響曲、それぞれのジャンルに名を残すヒット作となった。特に交響曲 ニ短調は、短いモチーフが全曲を統合する構成のみごとさが特徴である。
夭折の天才、ビゼー
ジョルジュ・ビゼー(1838‐1875)は、パリ音楽院在学中から作曲家・ピアニストとしてその才能を発揮してきたものの、なかなか作品の演奏機会に恵まれなかった。1855年に作曲した交響曲 ハ長調も生前には演奏されていない。編曲家やピアニストとして糊口をしのぐ日々を送りながら作曲し、1863年に初演されたオペラ《真珠採り》も大衆の支持を得られなかった。
ビゼーがようやく作曲家として認められたのは、アルフォンス・ドーデの戯曲『アルルの女』への付随音楽である。現在ではビゼー自身の編曲による《第1組曲》、友人のエルネスト・ギローの編曲による《第2組曲》として演奏される機会の多い本作は、プロヴァンス民謡《3人の王の行進》《馬のダンス》を採り入れるなど、プロヴァンス地方の民族的情緒を音楽面でも豊かに表現している。ちなみに、劇音楽としての初演の評価は芳しくなかったが、初演の後にビゼー自身が手掛けた《第1組曲》は聴衆の圧倒的な支持を受けた。
オペラ《カルメン》は、ビゼーの最高傑作であるのみならず、オペラの歴史においても1、2を争う作品であろう。プロスペル・メリメの小説を原作とする本作は、1875年にパリのオペラ=コミック座で初演された。初演こそ不評だったものの観客動員数は伸び続け、より大規模な「グランド・オペラ」への改作が計画された。しかしこの改作を完成することなく、同年6月にビゼーは病死してしまう。現在われわれがよく聴く《カルメン》は、エルネスト・ギローの手によるグランド・オペラ版である。スペインのセビリアを舞台に、女工カルメンと伍長ドン・ホセ、闘牛士のエスカミーリョ、ドン・ホセの婚約者ミカエラが織りなす恋愛ドラマと、〈ハバネラ〉〈闘牛士の歌〉〈お前の投げたこの花を〉などまさに名曲メドレーともいうべき美しい旋律の連続は、多くの人を魅了してやまない。第1幕の前奏曲もスペイン情緒にあふれており、単独でもよく演奏される。
「中編」へ続く。
<文・加藤新平>