この10年、コハーンは、日本の文化や慣習に影響を受けながら、今の時代に音楽家が求められることは何かを常に考え、クラリネットの無限の可能性を探求し続けてきた。そんな彼が日本デビュー10周年記念公演で見せるのは、やっぱり自分は外国人、ハンガリーから来た「かぶきもの」であるという自覚のもと、自ら作曲した新作『かぶきもの』を披露するパワフルでエモーショナルなステージだ。
音楽も、写真も、映像も、自分にとっての〈小さな魅力〉や〈気持ちのいいポイント〉を聴く人・見る人にわかりやすく届けることで、全体的な魅力が伝わると考えるコハーン。「ライブを通して、聴く人が日常では見出すことのできない熱情や強い印象を受け取ることで、心をオープンにしてもらいたい」と語ってきた彼の集大成ともいえるステージは、クラシックにはあまり興味のない音楽ファンの人にこそぜひ聴いてもらいたい。
今から10年前、故郷ブダペストで出会った愛する人と人生を分かち合うために、クラリネット奏者、コハーン・イシュトヴァーンは東京へとやってきた。23歳のコハーンにとって、遠い異国での暮らしはカルチャーショックの連続だった。生活も音楽も、全てがハンガリーとは違っていた。
この10年、コハーンは日本の文化や慣習に影響を受けながらも、ヨーロッパのアイデンティティを大切に守り続けてきた。ステージに立つ以上、表現には限界を設けない。そうしたスピリットは、祖国ハンガリーでの少年時代に培われたものだ。コハーンの演奏は日本でも高く評価され、日本音楽コンクールをはじめとする数々のコンクールでの優勝も成し遂げた。しかしコハーンの表現に対する飽くなき探究心は、調和を重んじる日本社会のなかで、ときに違和感をもたらした。控えめな美を尊ぶ日本人から見たら、自分は常軌を逸しているのではないか。どんなに日本人になろうとしても、自分のなかのハンガリーの魂を消し去ることはできない。コハーンが自身の日本デビュー10周年記念リサイタルに『かぶきもの』というタイトルを与えたのは、そんな想いからだった。
リサイタルの冒頭を飾るコハーンの新曲《かぶきもの》は、日本という舞台でがむしゃらに舞う自分を描いた自画像である。クラリネット1本でどれだけの音楽表現が可能なのか、コハーンはその限界を超えていく。
《ラプソディ》第1番は、ドビュッシーがパリ音楽院の試験課題曲として書いた作品。コンクールの課題曲の定番であり、クラリネット奏者なら誰もが学ぶレパートリーだ。奏者のテクニックを問うパッセージの奥に隠された、ドビュッシーの色彩の魔法をコハーンは紐解いていく。最晩年のブラームスによるクラリネット・ソナタ第2番は、コハーンが「クラリネットのために書かれたもっとも美しい音楽」と語る傑作。コハーンの深い呼吸によって紡がれる哀愁に満ちたフレーズを、萩原麻未のひろがりのあるピアノが優しく包み込む。バルトークの《コントラスツ》では、ハンガリー音楽の真髄に触れることができるだろう。コハーンが共演者に選んだのは、もうひとりのかぶきもの、滝千春。コハーンはヴァイオリンの固定観念を打ち破る滝の演奏に共鳴し、多くのコラボレーションを重ねてきた。ふたりのかぶきものによるエキサイティングな対話に、思わず身体が揺さぶられるはずだ。リサイタルを締めくくるのもコハーンの新作《ヘブライの風景》。この作品は、尊敬するバルトークの名曲《ハンガリーの風景》へのオマージュである。クレズマー音楽の調べに導かれて、コハーンのノスタルジアが過去から未来へと運ばれていく。
コハーンが来日以来考え続けてきた問いの答えには、現代の日本で生きる私たち一人ひとりの内面も映し出されているのではないだろうか。リサイタル『かぶきもの』は、コハーンの音楽を通して、自分自身の10年を見つめる時間となるかもしれない。
<文・八木宏之>
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- 公演名
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- イシュトヴァ―ン・コハーン 日本デビュー10周年記念公演「かぶきもの」
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- 日時
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- 2023年12月11日 18:30開場 19:00開演
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- 会場
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- 東京文化会館小ホール
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- 出演
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- イシュトヴァ―ン・コハーン(クラリネット)
萩原麻未(ピアノ)
滝 千春(ヴァイオリン)
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- プログラム
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- コハーン:かぶきもの(世界初演)
ドビュッシー:ラプソディ第1番
ブラームス:クラリネットソナタ第2番
バルトーク:コントラスツ
コハーン:ヘブライの風景(世界初演)
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