2016年1月のデビュー・リサイタルではチケットが即完、2018年にはマネジメント会社「株式会社NEXUS」を立ち上げ、同時にカルテットを結成・プロデュースし、現在はオーケストラに発展。そして2021年、第18回ショパン国際ピアノコンクールにて、日本人では半世紀ぶりの第2位受賞。世界中のクラシック音楽ファンの注目を集め“いま、いちばんチケットが取れない音楽家”として常に話題を呼んでいる反田恭平さん。 多くの顔を持ち、世界中を飛び回る音楽家である反田さんは、どうして音楽に出会ったのか。なぜ音楽を続け、向き合っているのか。ショパン・コンクールでの「あの曲」はなぜ選曲されたのか―― 音楽にまつわるお話に加え、プライベートの話題も、前後編に分けてたっぷりとお届けします。
◎指揮者になるには、まずピアノを極める!?
―― 音楽との出会いを教えてください。
親が転勤族でいろんなところに住みました。名古屋で幼稚園に入るころ、「ヤマハの音楽教室に行ってみない?」というのが最初のきっかけです。エレクトーンや音当てクイズのようなリトミックを習っていました。そのころから耳が良かったようです。
その後、東京へ引っ越して「一音会ミュージックスクール」という、耳を鍛えることに重きを置いた音楽教室へ通い出しました。ピアノのレッスンはありましたが、音感の訓練がメインだったので2週間に1回くらいで、ピアノはいわゆる副科のような扱いでした。ミュージカルやオペレッタに力を入れていて、舞台に立つためのメンタルを鍛える訓練もしていました。
―― 幼少期からピアノを習わられていたわけではないのですね。
ピアノも幼少期からやってはいました。そのとき教えてくださった先生は、当時を思い起こすとたぶん僕よりも若くて、「好きな作品を弾いていいよ」と、本当に好きなように音楽を楽しませてくださいました。
当時の一音会は3,000人くらい生徒さんがいて、発表会をやろうと思ったら大ホールを1週間貸し切っておこなう、それこそ一種の音楽祭のような規模です。僕はそのなかでも上から2番目くらいに耳が良く、小学校5年生のときに、「きっと才能があるからもっときちんと習った方がいい。桐朋学園の音楽教室なんかいいと思う」と言われ、家が近いのもあって桐朋学園大学音楽学部附属 子供のための音楽教室に通い始めました。
ですが、桐朋の音楽教室は天才少年少女が集まるような場所で、今まで自分が弾けていると思っていたので、上には上がいるのだということを初めて理解しました。
―― ご両親は音楽とはまったく関係のない方だったのでしょうか。
まったく関係ないです。父はサラリーマン、母は専業主婦ですが、昔趣味でエレクトーンを弾いていたみたいです。
―― ピアノを本格的に練習し始めたきっかけはなんだったのでしょうか?
コンクールに出ても表彰台には登れず、良くて地区予選の奨励賞止まりのような成績で、正直あまりピアノには魅力を感じていなかったんです。そんなときに、音楽教室のチラシで見た「指揮者体験ワークショップ」で初めてフルオーケストラを振って、世界が変わりました。すごく楽しくて、オーケストラがかっこよくて、どうしたら指揮者になれるのか聞いてみたら、「まずはひとつの楽器を、ピアノをやっているのであれば、ピアノを極めなさい」との助言が。ピアノを極めたら指揮者になれるんだ、と小学生の僕は安易に思い、そこからピアノをがんばろうと練習を始めました。
それまで本当に好きな曲しか弾いてこなかったので、いわゆる基礎や基本のバッハやツェルニー、ベートーヴェンなどはほとんど学んでいませんでした。桐朋の音楽教室に通う小学校6年生って、バッハだったらすでに平均律を弾いているような子ばかりです。初歩のインヴェンションからやらなきゃいけないと言われたときは、もうすごくショックで……。基本だから絶対にやりなさいと言われ、中学校2年生でようやく平均律に入って、追いつけ追い越せ精神でがんばりました。
そんななか、中学校3年生で音楽高校に行きたいと父に相談したら、猛反対されました。「1位という肩書きも取ったことがないのにプロになれると思っているのか、お前は学費を払ってもらう権限はない」と。そう言われたからにはいくつかのコンクールを受け、第1位の表彰状を全部まとめて叩きつけて「これでお願いします」と、ようやく高校へ入学しました。
高校3年生のときに日本音楽コンクールを受けて、無事に第1位をいただきました。そうしたら少しずつお仕事が増えていって、奨学金や留学のお話も来てデビューにつながっていき、いまにいたります。
―― 幼少期の先生がいわゆる基礎固めのレッスンではなく、「音楽を楽しむ」ことを教えてくれたことがいまにもつながっていそうですね。
それが僕の音楽の原点ですね。当時の先生には感謝です。
―― ワークショップでフルオーケストラを振った経験が、音楽を続けるきっかけになったとのことですが、その時点で「音楽でご飯を食べていこう」と思われていたのでしょうか。
いや、どうやったらプロの音楽家になれるのかよくわかっていなかったんです。とりあえず、「なんかショパンのエチュードやリストの超絶技巧練習曲みたいなすごい曲が弾けたら、プロになれるのかな」みたいな……。「プロの音楽家」に定義もありませんし。
本格的にピアニストとして生きていく決心をしたのは、中学校2年生で受けたコンクールで最高位をいただいたときです。そのコンクールに参加した全国の同世代の中で1番だったので、これならチャンスがあるかもしれないなと。
◎ピアニスト、指揮者、経営者、そして夫、父――
―― さまざまな顔を持つ反田さんですが、現在のメインの活動はなにになるのでしょうか。
ピアニストですね。年間の比率で言ったら7割くらいはピアノを弾いて、残りの3割が指揮でしょうか。ただ少しずつ指揮の割合が増えてきて、2024年は4割くらいが指揮になってきました。
―― 指揮はどのように学習されているのですか?
ちょうとコロナ禍が始まるくらいの2020年、指揮のすばらしい先生に会えるチャンスがあったので、そこから2年くらい日本とウィーンで教えていただきました。
あとはオーケストラの演奏者に教えてもらっています。プレイヤーたちは究極の先生なので、実際に僕が振って、それを見てどう感じ取っているのか確認しています。「こうした方がいい」とか「これが分かりづらかった」とか、アドバイスがあったらなんでもいいので教えてくれ、とメンバーには声をかけています。
―― 結婚して、お子さんが誕生されて、ライフスタイルも随分変わったとお見受けします。
本当に目まぐるしい1年間でした。今年30歳になって、音楽家としてキャリアを積む上で重要な時期でもあるので、家族にはとても助けられています。妻のご両親に子どもを預かってもらうことも多く、頭が上がりません。
フレデリック・ショパン音楽大学にて
―― ライフスタイルの変化が音楽に与える影響は大きいですか?
そもそも、やはりショパン国際ピアノコンクールを経て音楽のとらえ方が変わりました。どういう音を出すかは弾く直前にその都度イメージして考えていますが、手首の使い方だったり、音を出す瞬間の呼吸についても、純粋に肺を使った呼吸なのか、鼻から吸った呼吸なのかなど、バリエーションが増えたのは間違いないです。
子どもが生まれて、音質が変わったとよく言われます。よりまろやかで深みが出る音になったそうです。子どもを持つまでわからない景色もありました。出産にも立ち会いましたし、命がけで産んでくれた妻には感謝しかありません。だからできる限り僕も妻へ恩返しがしたい。妻は産休も取ってピアニストのキャリアとしては休んでくれたので、まずは僕が実績を積んで、妻をソリストとして招待できるくらいの音楽家になりたいです。
―― 夫婦仲がとても良さそうで、ほほえましい気持ちになりました。
仲は良いですね。もとから親友だったので友だちという感覚も強くて、いつでも相談し合える仲でもあります。的確な答えが返ってくるので、悩んだらすぐに妻に意見を聞きますね。僕も頑固ですし、夫婦なので衝突することもありますが、子どもが生まれてからは本当に喧嘩しなくなりました。夫婦喧嘩は夫が折れるべきだと思っているのもありますが(笑)。
基本的に僕は褒められて伸びるタイプ、そして妻はビシバシ言われて糧にするタイプです。お互い分かってはいても、伝え方などで苦労した部分は正直あります。彼女の演奏スタイルと僕の演奏スタイル、思考回路や曲への考え方が違うのは当然ですし。だけどいま、お互いの思考をとてもポジティブにとらえています。
ショパン・コンクールのあと、初めて「ピアノがもっと上手くなりたい」と思ったんです。いただいたこの賞に恥じないキャリアを積んでいきたい。なので、お互いが師匠となって、「こういう見方もあるよね」というアドバイスやレッスンをし合っています。ポジティブに受け入れられている関係というのはすごくいいですね。
―― お互いが相乗効果を生んで、公私ともにより向上心も生まれますね。ただ、なんともスケジュール調整が大変そうです。
子どものこともあるので、なるべくお互いの予定が重ならないようにやり繰りもします。今週は僕が演奏して、来週は妻がコンサート、みたいな。いまはツアーが終わってオフになったので、今週の担当は僕ですね。朝7時に子どもに起こされて、ご飯を作ってお散歩して……そのあたりは一般家庭と同じです。今日もこのインタビューが終わったら、子どもをお風呂に入れます。
なにより子どもがかわいくてかわいくて。時間を作っていつも一緒に遊んでいます。
―― お子さんには将来的に音楽をさせたいなどは考えられていますか?
これはもう100回以上聞かれているんですが、やはりみなさん気になりますよね。実際、子どもは音楽に対して非常に興味を持ってくれています。それこそ妻は妊娠中もステージに立っていたので、弾きながらよくお腹を蹴られていたそうです。
東京の家はリビングにアップライトピアノを置いているので、よく触ったり遊んだりしています。興味を持って、本人がやりたければ、習ってみてもいいかなぁ。どの世界もそうだと思いますが、一線を極めていくことは大切だけどとても大変で、楽しいことだけではないんですよね。辛いこともたくさんあります。そこを乗り越えられる信念を持っているか、才能を持ち合わせているかは、我々でちゃんと見極めなければいけないね、と話しています。
そのあたりは妻がけっこうシビアです。子どものころから厳しい練習をしてきて、4歳の時点でべらぼうに弾けた子ですから。8歳でカーネギー・ホールデビュー、9歳でコンチェルトですよ!? 「わたしより弾けなかったらやめさせる」と言っていますが、「あなたより弾ける子はそうそういないぞ」と僕は思っています(笑)。逆に、妻がカーネギーに立っていたときに石けりをしていたような人間がここまで来ているので、「どこでなにがあるかわかんないぞ」派です。やっぱり本人次第かな。
―― いわゆる“育メン”ではなく、しっかりと父親をされていてすばらしいです。新しい曲の譜読みをしたり練習する時間はありますか?
なかなか厳しいのが正直なところです。産まれてからの1年は自分の持っているレパートリーでなんとかできるよう、新曲の譜読みを制限しました。指揮だけはほとんどが新しいレパートリーなので妥協して譜読みしましたが、幸いうちの子はあまり夜泣きがなくよく寝るタイプの子なので、深夜0~1時から練習していました。ただ僕も30歳になり、子どもの活動量も増えた最近、寝かしつけと同時に9時に寝落ちてしまいます……。難しいですね。
<文・取材 浅井彩>
■「後編」へ続く■
反田恭平(Kyohei Sorita)
2021年第18回ショパン国際ピアノ・コンクールにて、日本人では半世紀ぶりの第2位受賞、コンクールの模様はインターネット配信され、世界中のピアノファンの注目を集めた。
2012年第81回日本音楽コンクールにて第1位を獲得、合わせて野村賞、井口賞、河合賞、岩谷賞を受賞。以降は国内を中心に演奏活動を行う。
2016年1月にサントリーホールにて本格的なデビュー・リサイタルを開催、チケットが即完し大型アーティストの登場に大きな注目を集めた。2018年にはマネジメント会社「株式会社NEXUS」を立ち上げると同時に、同年代の実力派アーティストを迎え「MLMダブル・カルテット」を結成しプロデュース。
「MLMダブル・カルテット」は2021年に「Japan National Orchestra(JNO)」へと発展、株式会社化して奈良を拠点にアウトリーチ活動や、奈良の文化活動の発展に寄与している。全国ツアーでは各地完売が続き、日本一チケットが取れないと話題を集めている。
2019年にイープラスとの共同事業でレーベル「NOVA Record」を立ち上げ、NEXUS所属アーティストをはじめJNO、JNOメンバーのCDをリリース。2020年のコロナ禍ではいち早く有料のストリーミング配信を行い、2021年からは若手音楽家とファンを繋ぐコミュニケーションの場となる音楽サロン「Solistiade」を立ち上げ運営するなど、様々な角度からクラシック音楽ファンの拡大のための活動を精力的に行なっている。
2022年からは活動の拠点をウィーンへ移し、指揮の勉強と合わせてヨーロッパを中心にカナダ、アジア、オーストラリアと海外での演奏活動にも力を入れている。
トーンキュンストラー管弦楽団との共演で2020年にウィーン楽友協会デビュー、2024年にはザルツブルク・モーツァルテウム管弦楽団との共演で指揮者デビューを果たす。
これまでに共演したオーケストラ
ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団、ベルリン・ドイツ交響楽団、NDRエルプフィルハーモニー管弦楽団、マリインスキー劇場管弦楽団、ワルシャワフィルハーモニー管弦楽団、ロシアナショナル管弦楽団、スペイン国立管弦楽団、RAI国立交響楽団、トーンキュンストラー管弦楽団、ハーグ・レジデンティ管弦楽団、プラハ・フィルハーモニア管弦楽団、NHK交響楽団、東京都交響楽団、読売日本交響楽団等、オーケストラとの共演は200回以上に及ぶ。
2024年5月フォーブス誌の「Forbes 30 Under 30 Asia – Class of 2024」に選出された。
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