2017年に「怖い絵」展が開催され大きな話題になった、中野京子さんの大ベストセラー「怖い絵」の本シリーズ。その中野さんの監修で、「怖いクラシックコンサート」が9月19日(日)に東京文化会館で開催されました。東京フィルハーモニー交響楽団と、日本の第一線で活躍するオペラ歌手たちが出演し、音楽面でも充実したコンサートとなった当日の様子をここにお伝えします。

東京文化会館大ホールの舞台には通常のコンサートのようにオーケストラの席が配置され、その上に大きなスクリーンが吊るされています。このスクリーンに絵画を映し、関連する楽曲の生演奏を聴くという趣向です。「怖い絵」シリーズの著者でドイツ文学者の中野京子さんが舞台で、絵と曲のつながりを解説してくれます。
プログラムはクラシックの名曲に加えオペラからの選曲も多く、特に後半はビゼー作曲『カルメン』からの抜粋になっていました。ちょうど良い感じで埋まっている客席には、通常のクラシック演奏会と比べて若い方の姿が多いように見えました。
会場で聴くと、オーケストラや歌手たちの声の響きが素晴らしく、絵画と演奏の組み合わせも興味深かったですが、その後配信を観たところ、複数台のカメラが音楽に合わせて演奏者をアップにしたり、絵の細かいところを何度も切り替えて見せてくれるので、これはまた飽きずに鑑賞できてとても良かったです。
時間になると東京フィルハーモニー交響楽団のメンバーが席につきます。一曲目はチャイコフスキー『エフゲニー・オネーギン』よりポロネーズ。舞踏会のシーンに使われる曲はとても華やかです。そして司会の笠井美穂さんと中野京子さんが登場します。『エフゲニー・オネーギン』は中野さんが「チャイコフスキーのオペラの中で一番好きな作品」であるのに加え、オープニングにふさわしい曲なので選んだそうです。

続いてはラヴェルの「亡き王女のためのパヴァーヌ」。これはラヴェルが、ルーヴル美術館で出会った、ベラスケス(工房)の絵「マルガリータ王女」にインスパイアされて作曲したそうです。マルガリータはスペインの王女ですが、血族結婚をくり返した果て虚弱に生まれ、叔父のもとへ嫁がされ、お産の床で21歳で亡くなってしまいました。晩年、認知症気味になったラヴェルは街で偶然この曲を耳にし、「なんて美しいメロディだ。誰が作ったのだろう?」とつぶやいたとか。金髪のあどけない王女の運命に思いを馳せながらこの曲を聴きます。
次はプッチーニのオペラ『蝶々夫人』より「かわいい坊や」。長崎を舞台に、アメリカ人海軍士官の現地妻となった蝶々さんが、彼に捨てられ、二人の間に生まれた子供を引き渡して自ら死を選ぶ物語です。オペラの最後に蝶々さんが、息子への愛を歌うアリアが演奏されました。関連する絵画として中野さんが選んだのは、ドラクロワの「怒れるメディア」。コルキスの王女メディアがギリシャの英雄イアソンと結ばれ二人の子供を授かるもメディアはイアソンに捨てられる。彼女は復讐のため、イアソンの婚約者と我が子二人を殺めるという話です。子供の将来のため自らの命を断った蝶々夫人と好対照をなす絵の選択が面白い。追っ手から逃れ洞窟にきたメディアが二人の子供を腕に抱えた姿は緊迫感にあふれています。蝶々夫人のアリアはソプラノの砂川涼子さんが歌いました。白く輝くドレス姿が美しく、歌の表現力もたっぷりでした。
第一部の最後の曲はムソルグスキーの交響詩「禿山の一夜」。迫力のある名曲です。選ばれた絵はファレーロ「サバトに赴く魔女たち」。魔女たちは裸体の美女として描かれており、ほうき、黒猫、山羊などの魔女をあらわす道具の数々もしっかり描きこまれているのだそう。山羊の目は瞳孔が横に長いことなど、細かい「怖い」ポイントを教えてくれるのも面白いです!

第二部はビゼーのオペラ『カルメン』で構成されています。スペインを舞台にした、自由奔放な女カルメンをめぐる愛と嫉妬のドラマです。初演時の評論家たちの辛辣でしかも的外れな批評のせいで、天才ビゼーは命を縮めてしまった可能性があること、また、このオペラのイタリア語版をロシアで聴いたチャイコフスキーがビゼーを非常に高く評価したことなどが紹介されました。中野さんが選んだ絵はゴヤのエッチング「闘牛士」。ゴヤはスペイン男らしく闘牛の絵をたくさん残しているそうです。中野さんはご自身がスペインで闘牛を観た時、体重500キロを超える雄牛の迫力と美しさ、闘牛士が雄牛にとどめを刺し、黄色い砂に流れる赤い血が一瞬で黒く変色していくさまなどに深い印象を受けたそうです。それ以来、『カルメン』エスカミーリョの「闘牛士の歌」も、神事ともいえる闘いから戻ってきた男の高揚した気持ちを歌う歌なのだと腑に落ちたとのこと。
『カルメン』からあまりにも有名な前奏曲が演奏されます。続いて名場面の数々も。まずはカルメンが登場し、彼女に憧れる男たちを前にして歌う「恋は野の鳥」。真紅のドレスの谷口睦美さんがメゾソプラノの艶やかな声を披露します。そして実直な兵士ドン・ホセと許嫁ミカエラが故郷を思って歌う二重唱。砂川涼子さんはペパーミントグリーンのドレスに着替えて清楚な娘役がよく似合い、テノールの笛田さんは輝かしい美声が圧倒的です。最後に見つめ合う二人の雰囲気が素敵でした。そしてゴヤのエッチングをバックに、バリトンの与那城敬さんがエスカミーリョの「闘牛士の歌」を華々しく歌います。

アリアの合間には『カルメン』の二つの間奏曲も演奏されました。特に第三幕への間奏曲はハープの伴奏に乗ってフルート、クラリネットなどが奏でるメロディーが雰囲気を高めます。三ツ橋敬子さんの指揮は、ひきしまったテンポでオーケストラを統率し、また歌の伴奏をする時には歌手をしっかりサポートして聴きごたえたっぷりでした。
そして最後には、自分を捨てたカルメンに復縁を迫るために闘牛場に現れたドン・ホセの場面。笛田さんの熱演に、一歩も引かないカルメンの谷口さんの二人がすごい迫力です。特に最後の「あんたにもらったこの指輪、返すわ」というところは、カルメンのホセを嘲笑うような表情といい、まさに「怖い」が炸裂した最高の歌唱でした。

観客の鳴り止まない拍手に、アンコールの曲が演奏されます。これは本日のコンサートの中でも一番「怖いクラシック」と「怖い絵」だったかも知れません。曲はサン=サーンスの交響詩「死の舞踏」、絵画はブリューゲルの「死の勝利」です。ブリューゲルの絵は骸骨の軍隊が押し寄せてきて人間を襲うという内容です。中世に流行したペストにより人口の三分の一を失ったヨーロッパの、戦争や疫病などが細かい描写で描かれています。例えば様々な処刑の仕方や、忍び寄る死神、残酷な死、貧者にも王にも平等に訪れる死など。中野さんが絵の一つ一つの描写を解説してくれて恐ろしかったです。
この絵を見ながら聴いたサン=サーンスの「死の舞踏」も、ヴァイオリン・ソロを交えたリズミカルで不気味な雰囲気を称えた曲。東京フィルの名コンサート・マスター、三浦章広さんの弾くソロ・パートにも勢いがあり、とても良い演奏でした。

笠井美穂さんの明快な司会と、解説の中野京子さんの怖くて楽しいお話が、素晴らしい演奏と一体となり、絵画と音楽という二つの芸術を同時に味わえる貴重なコンサートとなりました。
(文・井内美香 写真・千賀健史)
※アーカイブ配信は9月25日(土)まで視聴可能です。詳しくはこちらから。